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第六回:理想との乖離が生む無残さ

"現実はいつも、少しだけ残念なのだ。" by 倉下忠憲

朝一番に意気揚々と書き出したデイリータスクリストが、一日が終わってみるとずいぶん「想定とは違った」状態になっている。その状態が「無残」だと第四回では書きました。

なぜ、そのリストが無残だと感じられるのでしょうか。それは朝一に抱いた理想との乖離が大きいからでしょう。「本当はこんな一日になるはずだったのに」という思いがそこにはあるわけです。

逆に言えば、そんな理想との対比さえなければ、リストを無残だと感じることもなくなります。たとえば、朝一番にデイリータスクリストなんか作らなければ、一日の最後にそのリストを見て「無残だ」と思うこともなくなるでしょう。実に「抜本的」な対策です。

しかし、リストは現実を変えないのでした。リストを作ったところで、あなたに襲いかかってくるタスクの量が変わらないように、リストを作らなくてもその事態は変わりません。あなたは追い立てられたように作業をし、それで一日を終える現実はそのまま残ります。単にその事実が記録として示されないから、気がつかない(≒注意を向けない)だけなのです。

これは、体重計にさえ乗らなければ、自分の体重が増えているという事実からは目を逸らしていられるのと同じで、問題を無視することで問題があたかも存在しないように認識の箱庭を守っているにすぎません。

では、どうすればいいのでしょうか。

■ ■ ■

一つの方法として、理想と現実を切り分けることが挙げられます。

そもそも、理想と現実は違うものです。違うものだからこそ、違う名前が与えられています。 理想≠現実なのですから、「現実」のデイリーリストを見て、それが「理想」と違っているからといって落ち込むのは筋違いでしょう。

とは言え、意志とは理想を現実化しようとするベクトルのことです。リスト作りは、基本的にその意志に基づいて行われます。特に未来の活動に関するリストは常にそうです。強弱の違いはあれど、そこには意志の発露があります。

もし、「こんなことはまったくぜったい実行できない」と考えているなら、そもそもリストを作ったりしないでしょう。いくらかでも実行できる(≒現実化できる)という見込みがあるから(あるいはそう感じるから)リストを作り、そこに項目を書き出すわけです。

つまり、意志を持つ限り、「無残さ」が生まれる可能性は常に残ります。理想≒現実なものを、理想=現実にしようとする試みには、失敗する可能性が常に秘められているからです。

■ ■ ■

とは言え、意志を放棄する必要は別にありません。「自分の人生には極小の無残さも含まれてはならぬだ」、という強い決意をお持ちの場合はともかく、そうでないなら、「無残さ」の程度を気にならないレベルにまで小さくできれば、実際的な問題はほとんどなくなります。

言い換えれば、理想≠現実を認識した上で、あまりにも現実と乖離した「理想」を、「現実」を加味してリストラクチャリングしていけばいいのです。

あるいは、それはリストラクチャリングではなく、デコンストラクションと言えるのかもしれません。

(つづく)

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