『FACTFULNESS』は何をもたらしたのか
2019年、一番話題をかっさらったのは本書だろう。
「ビジネス書大賞2020」の大賞も受賞し、Amazonのランキングでもいまだに上位につけている。2,787個の評価で平均は4.3。かなり高いと言っていいだろう。いわゆる良書に分類される。
では、この『FACTFULNESS』は、もっと言えばこの『FACTFULNESS』の大ヒットは何をもたらしただろうか。
正直なところ、劇的な変化は何も起きていないように感じる。あいかわらずTwitterでは、印象的で断罪的なつぶやきが恐ろしい勢いでファボとRTを集め、偏見に基づいた知識人が今日もろくでもない「ご意見」をまき散らしている。
しかし、そのような状態に絶望するのは早いだろう。というか、そのような絶望こそが、本書が戒めているものの見方である。
変化は少しずつ進む
変化は少しずつ進んでいく。しかも、その変化は直線的とは限らない。株価のチャートのように、上がったり下がったを繰り返しながら、しかしある方向に向かって進んでいく。短いスパンでしか捉えないなら、その変化は捉えられないばかりか、逆向きの方向を感じてしまうことすらあるだろう。
そもそも一冊の本がヒットしただけで、人間のものの見方が劇的に変わるとしたら、それはもう洗脳である。そんなことが起きるほうが怖い。
だから、今日も昨日と変わらない日が続いている、かのように私たちの目には映る。しかも、私たちはよりネガティブな情報に反応するので、インターネットを代表とする情報空間は、日増しに「悪くなっている」ように感じる。そう、「感じる」のだ。
私が列車に乗っていて、窓の外の列車が動いているように「見える」なら、私か列車のどちらかが動いていることがわかる。少なくとも、静止しているとは「感じ」ない。
つまり、目に入る情報によって、私たちは世界を(脳内で)構成する。よって、日ごろネガティブな情報ばかりに触れていれば、私たちにとって世界が「悪くなっている」ように感じるのは至極当然なのだ。むしろ、そう感じることを止めることはできないと言っていい。
しかし、本書はそうして感じたことを、信じる必要はないことを告げている。
ファクトから始める
ファクトフルネスの考え方は、何か信じるに値するファクトがあるなら、それを信じよう、というものではない。私たちはどこまでいっても恣意的な存在で、その存在同士が情報交流を行っているのだから、情報の精度なんてはなから期待してはいけないのだ。
さらに、直観は間違う。直観は、生物的に非常に高機能なパターン処理だが、完璧ではないし、しかもその不完全さをつく手法は年々明らかにされている。だから、直観の有用性は理解しつつも、それに頼りすぎてはいけない。
では、どうするか。
落ち着いて考えるのだ。
では、どうやって落ち着くのか。
感情と少し距離を置くのだ。
では、どうやって感情と少し距離を置くのか。
データに触れるのである。
データは「真実」を明らかにしてくれるものではない。もしそう考えているとしたら、それはファクトフルネスな姿勢ではない。データは、議論のスタート地点を与えてくれる。少なくとも、共通的にはこう言えるね、というものを指し示してくれる。
もちろん、そのデータの解釈となると、人によって偏りが出てくる。違いが生まれる。だからこそ、議論は始まるのだ。一体全体、まったく同じ考えで議論が生まれるだろうか。
私たちは、異なる見解を抱くからこそ、語り始めることができる。そして、そのためには、感情というエンジンにまかせるのではなく、理性というハンドルを効かせなければならない。そのために、「ちょっとデータを確認する」ことが大切なのだ。
それは、感情をまったく抜きにして議論を進めるためではなく、感情を少し冷却させ、共通の出発点を見つけるために役立つ。
広がりに期待する未来
もう一度言おう。ファクト(≒何かしらのデータ)があるんだから、これが真実だ。反対意見のお前たちは黙っておけ、という態度はとうていファクトフルネスとは言い難い。
ファクトは相手を黙らせるためにあるわけではない。対話を切り開くためにあるのだ。
そのような考え方は、きっと対話によって「感染」していくものだろう。その感染のスピードは、ウイルスに比べれば遅々たるものだろうが、それでも人の心に根付いた考え方はなかなかなくなるものではない。
5年経ち、10年経てば、今よりももっと多くの人がファクトフルネスな姿勢で議論を活発にしているかもしれない。むしろ、そうであることを願うばかりだ。
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