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ひねくれものの発想法/1000字書くこと、二人の自分の声/本のサビを見つける/フリーミアムは夢だった

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/11/23 第528号

○「はじめに」

Tak.さんの新刊が発売されております。

『佐々木さん、自分の時間がないんです』

対談本とのことで、今から読むのが楽しみです。

〜〜〜アニメ『暗殺教室』〜〜〜

姪っ子(小学二年生)と一日過ごすことがあったので、Amazon Prime Videoでアニメ『暗殺教室』を一緒に見ていました。

というか、あまりにも『鬼滅の刃』ばかりを見ているので、ちょっとは違うものを見ようぜ、ということで私がチョイスしたのです。

で、もともと好きな作品なのですが、改めて見てもやっぱり良いですね。教師というのは生徒が乗り越えていくべき存在であり、また教師もそれを理解した上で自分がいなくても一人前にやっていけるようにさまざまなことを教える。そういう関係は素敵だと思います。

中には、その逆な「教える人」も……という話は暗くなるので止めておきましょう。

〜〜〜相手のことを考える〜〜〜

結城浩さんの著作には「読者のことを考える」という箴言がたびたび出てきます。とても大切な言葉です。書き手に限ったことではありません。

自分が何かを渡す相手のことを考えるのが大切なのは、おそらく人間は基本的に自分のことばかりを考えてしまうからでしょう。自分の利益、見栄、格好、出世、エトセトラ、エトセトラ。そうしたものに注意を向けて、何か相手のためになることができるとはとても思えません。自分のことばかり考えている状態では、相手にギフトを送るのは無理なのです。

もちろん「相手のことを考える」のは、相手に阿ることを意味するわけではありません。むしろ、「阿っておけば、満足するだろう」などと決めつけるのは、ぜんぜん相手のことを考えてないと言えます。

同様に、「自分が精いっぱいやっても、誰にもこの価値は伝わらない」などと考えるのも、結局は相手のことを考えずに、自分で決めつけてしまっている状況です。

つまり、相手のことを考えるとは、「想像はするけれども、最終的に理解できるわけではない」ことを受け入れることでもあります。

この点が極めて大切でしょう。

「読者のことを考える」であって「読者のことを理解する」ではありません。そこには「わからない」の余地が残っています。それが慢心と傲慢さを抑制するわけです。

ちなみに、相手のことを考えずに、自分のことばかり考えている人は、自分が自分のことばかり考えていることに気がつきません。逆に、「自分は自分のことばかり考えているな」と考えたとき、はじめて「自分のこと」以外のことを考えるスペースが生まれてきます。

なかなか複雑です。

〜〜〜ツッコミどころを引き受ける〜〜〜

まったくのトートロジー(同義語反復)でないかぎり、何か意味あることを言おうとしたら、そこに「ツッコミどころ」が生まれます。いやいやそうじゃないだろうと反論されてしまう余地が生じるのです。つまり、その言説には完全ではない何かが含まれることになります。

逆に言えば、完全な言説とはトートロジーのことです。「私は私です」という言説には、「トートロジーじゃん」というツッコミ以外の入る余地がありません。それに比べると、「私は物書きです」という言説には、「ほんと、物書きなの?」とか「そんな力量で物書きと名乗れると思っているの?」といったツッコミが無数に入る余地があります。

だから、何か意味があることを言おうとするなら、ツッコまれることは覚悟した方が良いでしょうし、ツッコまれたからといってすなわちその言説がダメだととはならないことにも注意を払った方が良いでしょう。

〜〜〜一度は考える必要性〜〜〜

世の中には、考えても仕方がないことがありますが、対象が考えても仕方ないものなのかどうかは、一度考えてみる必要があります。

そう考えると、この世の中には考えなくても済むものなんてほとんどないと言えるのかもしれません。

〜〜〜テンプレートが持つ偏向〜〜〜

タスク管理や情報整理でよく使われる「テンプレート」は、最終的な完成物に至るためのひな形でもあり、同時に矯正器でもあります。方向を規定するものです。

もちろん、テンプレートを使っても、それとは別のものを作り上げることは可能です。罫線が引いてあるノートを、罫線をまったく無視して使うことができる、というのと同じです。

しかし、テンプレートがあることで、自分の認知の方向性がテンプレートに引きずられることは十分考えられます。人間の認知は、目に入る情報に影響を受けるので、テンプレートがあった場合と、なかった場合のアウトプットがまったく同じだと想定するのはあまりにも安直でしょう。

つまり、機能として見れば自由であっても、認知として見たときには自由でない、ということが起こりえます。

常に定型的に処理すれば問題ないものはテンプレートが活躍しますが、そうでない事柄については、テンプレートの利用はかなり気を遣ったほうが良さそうです。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

『コミュニティの幸福論 助け合うことの社会学』(桜井政成)

「オンライン授業で満足度が高かった講義内容をもとに、実況中継風の“読みたくなるテキスト”をめざして書きおろし」という内容紹介が実に現代的ですが、現代日本では身体的に近しい共同体以外に、さまざまなコミュニティが広がっており、それらとの付き合い方も新しいソーシャルスキルとなってきています。しかも、多くの大人が教えることができないスキルです。これからの社会を生きる人たちには極めて大切な事柄になっていくでしょう。

『学術書を読む』(鈴木哲也)

実にストレートなタイトルです。たしかに書店に並ぶビジネス書に比べると学術書は読みにくいもので、自分の専門外となるとよりいっそうその傾向が強まります。しかし、狭い領域で活躍して終わりというのでない限り、何かしらの学術書を読んで自らの知性(おおげさ)を磨いていく必要はあるでしょう。速読といった実用的なスキルよりも、案外こういう本の読み方のほうが大切なのかもしれません。

『村上春樹のせいで: どこまでも自分のスタイルで生きていくこと』(イム・キョンソン)

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(新品が欠品しているようで、埋め込みリンクが作れませんでした)

もちろん、村上春樹ファンの私としては気になるタイトルです。韓国の人気作家イム・キョンソンさんが、最愛の作家である村上春樹綴ったエッセイとのこと。「彼女にとって村上春樹は、どこまでも個人として生きることの大切さを教えてくれる運命的なロールモデルだった」という文章には深く頷きます。たぶん私も同じような影響を受けてきました。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q.自分の人生に強く影響を与えたと感じる作家は誰かいますか?

では、メルマガ本編を始めましょう。

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○「ひねくれものの発想法」 #知的生産の技術

企画案を考えていたときの話です。

編集者さんとメールでざっとした方向性を確認し合い、その後「企画案をお願いします」と言われたので、本当に大ざっぱに章立てしてメールを送りました。自分としては、「こういうことについて考えている」と考えたものを出したものにすぎず、そのまま通るとは思っていませんでした。

ただ、自分ひとりで考えすぎても詰まってしまうので、まずは気楽に意見を聞いてみよう、というくらいの心積もりで送信したわけです。

これまでは、そういう「気楽なパス」ができていませんでした。自分のターンでしっかり自分の仕事をやりきって、という形が多かったように思います。必然的に、パスを返すのが遅くなり、全体の進行が遅れてしまうだけでなく、不要なことを考えすぎていたという労力の背負い込み過ぎも発生していたように思います。

だから最近のテーマは「できるだけ早くパスを返す」です。もちろん、まったく何も考えないわけではありませんが、「根を詰めて考える」ことはせず、まずざっとしたものを投げて、相手の反応を受けてそこから詳細に詰めていく、という手順を重視しています。

その「ざっとした企画案」を編集者さんに送信し、あとは返事を待っていました。だいたい編集者さんは複数の企画を並行して進められているので、状況によってなかなかこちらの作業に着手できないこともあります。だから、気長に待っていました。

しばらくしたら返信が返ってきたので、それを読んでみて驚きました。私のラフな企画案のどこの点がラフなのかがしっかり分析&言語化されていたのでした。そりゃ、時間もかかります。

また、その分析が見事なものでした。「たしかにそうだ」と、深く納得できるもので、さすが編集者さんであると感心したものです。

というか、以前の私ならばそれと同じことを一人で延々と続けていたのでしょう。それは、他人を信用していないことの裏返しでもあります。もちろん、人様に迷惑をかけないように、自分で目一杯仕事をしようという気持ちもあるのですが、たぶんそれだけではない傲慢さがそこには混じり込んでいるように感じます。

なにせ、その分析は、おそらく私ひとりが行ったものよりも適切だったからです。やはり、自分ひとりの仕事には限界があるのです。

■ひねって返す

その分析は、簡単に言えば「要素が詰まりすぎている。大きく分けると三つくらいになるので、そのうちの一つに絞ってみてはいかがでしょうか」というものでした。

たしかに、大ざっぱな目次案をもし文字数に換算したら、『独学大全』くらいになるかもしれません。しかし、いま進めているのは新書の企画案なのです。無理ゲーです。

よって、フォーカスを絞ることにしました。

しかし、私はひねくれものです。「三つのうちから、一つを選びましょう」と言われて、そのまま素直に従うものではありません。

結果的に、主軸をそのうちの一つに絞りながら、別のもう一つの要素をそこに絡めることにしました。少し具体的に言えば、ノウハウ要素を主軸にしながらも、ツール思想的な要素を加えていくという感じです。

このようにして、まったく新しい──というより、自分ひとりではたどり着けなかった──企画案が生まれたのでした。

■やりとりとそこから生まれる角度

ボールを思い浮かべましょう。

私がボールを持ち、前に向かってまっすぐ投げる。簡単ですが、その分単純です。

一方、二人が向かい合って、テニスボールを打ち合う場合はどうでしょうか。

相手がまっすぐボールを打ってきたとして、そのまままっすぐ打ち返すこともできますが、多少角度を変えて打ち返すこともできます。ひねくれものがよく行うのは後者のような「コミュニケーション」です。

そのひねくれかたは、残念ながら一人でボールを投げているときには発生しません。相手がいて、レスポンスがあるからこそ生まれることです。

そのような「ひねくれものだから生まれる角度」は、決してひとりだけでは生まれることがない上に、何か新しいものを生み出す動力ともなります。「ひねり」がそこにあるからです。

人間というのは、たとえ専業のプロであれ、だいたいは凡人です。だから、まっすぐな考えは「どこにでもある、よく似た考え」になりがちです。

たとえ、「ナナメに向かって投げよう」と思っていても、それが一人で行われているならば、それはやっぱり「まっすぐ」なのです。今まで投げていた角度から45度角度を変えて投げても、結局はその角度に対して「まっすぐ」だと言えるでしょう。言い換えれば、ひねったことを考えようとして出てくる凡庸な(よくある)答えが出てくるのです。

その点、応答の中で生まれる「ひねり」は、そうしたものとは違っています。そこで生まれる「角度」は、自分の自然なフォームから発生するものではなく、相手のボールに反応して(悪い意味ではなく)仕方なく取られるフォームだからです。

たとえば、私が企画案を考えていた時点で、「ノウハウ要素を主軸にしながらも、ツール思想的な要素を加えていく」というコンセプトはどこにも生じていませんでした。たぶん、10時間考えても、100時間考えてもこの発想は出てこなかったでしょう。

イメージできるのは、どんどん要素を増やすか、どんどん要素を減らすか、という単純な加減か、あるいは「小説風に書く」というメディアの移行くらいなもので、軸を交じり合わせるという発想には至らなかったと思います。人間の発想って、そんなに自由自在ではないのです。

しかしそれが、応答となると、つまり他者がそこに入り込んでくると、途端に違った角度が生まれ得ます。もちろん、すべての人がそうだとは思いません。すごく素直な人は三つの中から一つを選ぶでしょう。

しかし、文章を書いて生計を立てていこうなどと考えて、それを実行に移してしまう人は何かしらの意味で「ひねくれた」ところを持っています(と思います)。よって、第二者(当人でも第三者でもない人)とのやりとりは、そこから「ひねり」を導き出すうまいやり方だろうと感じます。

■ドアの内と外で

noteで、ときどき行っている共同連載をやっていても感じるものですが、やはり他の人と何かすると、それまでとは違った「考え方」が生まれてきます。

文章を書くという行為が、最終的にドアを閉めて一人っきりで行うことだとしても、文章を書くまでの間は、ドアを開けて、外に出て、いろいろな交流を行うのが良いのだと思います。物理的にだけでなく、情報的にもです。

なので、来年も引き続き他の人と一緒に仕事をしていきたいと思います。

他の人を触媒とし、また自分が他の人の触媒となるような、そんな仕事ができるようになれば良いですね。

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