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自分の言葉で感想を書くことについての断章/WorkFlowyとScrapboxその4/後から見つけ出せるように一手間加えること

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2019/04/01 第412号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

4月です。4月1日です。

しかし、エイプリルフールネタはありません。

こちらからは、以上です。

〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜

前回は、ポッドキャスト開始のお知らせをしましたが、第二回も無事配信されております。

まだ二回しかやっていませんが、とりあえず「すごく楽で楽しい」です。

ブログ記事を1時間も書けばキリキリと疲れがやってきますが、こうしたトークだとまったく疲れません。あと、配信手順もiPhoneで音声チャットして、前の部分だけカットして、あとはOKを押せば、それで「ポッドキャスト」として配信できます。Anchorはこの辺がすごく簡単なのですが、だからこそ続けられそうだとも思います。

加えて、話している内容も、自分ひとりで何かを書いていたのではまず出てこないものがぼんぼん出てくるので非常に楽しいです。話し甲斐があるというものです。

とは言え、思索の方向がまったく違うので、文章を書くのをやめてトークにシフトする、なんてことはありません。強いていえば、書くことは下向きのやじるしをどんどん重ねていくことで、トークすることは互いに左右のやじるしをやりとりするような感覚です。

で、その両方が行われていると、広さと深さが良い感じに(語彙力)アップしていくのではないかと思います。

とりあえずは、今後も「書くこと」や「読むこと」や「考えること」(あるいは作り出すこと)を中心に話をしていくことになりそうです。

〜〜〜戦車と歩兵〜〜〜

びっくりのニュースです。

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 4月1日から、セイゴオのYouTube番組「ツッカム正剛」がはじまります。毎回、世の中のありとあらゆる「ヒト・モノ・コト」をお題に、セイゴオが「本」を紹介する番組。お題は、身の周りにあるものや社会情勢を賑わしていることまでぶっつけ本番で出されます。ときには意外な人物が登場することも。
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千夜千冊でお馴染みの松岡正剛さんが、YouTube番組をスタートさせるとのことで、当然のように紹介されるのは本です。面白い番組になりそうな予感がプンプンするではありませんか。

私も、前々から本を紹介する動画をやりたいと考えていましたが、戦場を歩いていた歩兵が、突然大型の戦車に遭遇した気分になっています。

まあ、しばらくは様子見でしょうか。

〜〜〜「読まれないと意味がない」〜〜〜

文章術、というよりもメディア運営の方法論の中で、「書いた文章は読まれないと意味がない」という言葉をよく見かけるのですが、まず「本当にそうか?」というツッコミが浮かんできて、「仮にそうだとしても」という二段階ツッコミも浮かんできます。

書いた文章が誰にも読まれなかったとしても、誰かに読まれるだろうと思って文章を書くことは無意味とは思えません。

しかも、仮にそれが無意味だったとしても、「読まれないと意味がない」という言説で想定されている「読まれない」がどのような意味なのかが判然としません。

たとえば、「ブログでは長い文章は読まれない。読まれないと意味がない。だから短い文章にしよう」というような〈アドバイス〉があるわけですが、長い文章だって読まれているブログはあるわけで、せいぜい「ブログでは、長い文章を書くとせっかちな人にはあまり読まれない」とか「ブログでは、文章力が拙い人が長い文章を書いてしまうと、最後まで読まれにくい」くらいが正確なところではないでしょうか。

でも、そうした正確な表現ではなく、あくまで自分が主張したいことを強調するために、最初に挙げたような表現になっているわけです。

こうしたレトリックはメディアに溢れかえっているので、摂取する私たちが、「それって本当かな? 細かい部分は違うんじゃないか?」と考えておくことは大切でしょう。

〜〜〜何かが違う〜〜〜

私は食事についての関心が著しく低いので、食事系のブログを購読することはまずないのですが、それでもたまにタイムラインに流れてきたブログを覗いてみると、そこに違いがあることはわかります。

あるブログは、つい他の記事を読みたくなり、別のブログは、最初の段落でタブを即座に閉じてしまいます。

扱っているテーマそのものはどちらも食事であり、変わりはありません。でも、読者としての反応は異なります。

おそらくですが、ブログの特性というものは、扱っているテーマの特異性ではなく、書き手が対象に向けているベクトルが鍵を握っているのでしょう。

そのベクトルは、対象のことがどれだけ好きか、ではなく、対象についてどれだけ「言いたいのか」が影響していそうです。

〜〜〜違ったボール〜〜〜

新刊の新書には、ほんとうにたくさんの、これまでとは違った人たちから感想をいただけています。

で、最近はじめたポッドキャストでも、違った人や違った感想を頂けています。ボールを投げている私は同じなのに、です。

やはり違ったボールを投げれば、違ったボールが返ってくるのでしょう。このことは、強く肝に命じたいと思います。

非常に大切なことです。

〜〜〜「正しさゲーム」にはまらない〜〜〜

私と妻には暗黙のルールみたいなものがあります。それは、「相手が感情的表明をしてきたら、まずそれを受け入れる」、というもの。

たとえば、「あなたの言い方の○○に傷ついた(あるいは怒った)」ということを相手が言ってきたら、まず「ごめん」とその表明を受け入れます。そのとき、自分の心の中に「いや、そういうつもりではなかったんだ」と言いたい気持ちがあるにしても、それを言うよりも先に、「そうだったのか。ごめんね」と言うわけです。

最初に「いや、そういうつもりではなかったんだ」という言葉を発したくなる気持ちの裏には、「私は悪くないんだ」という気持ちが潜んでいます。それは・わたしの・せいでは・ないのだ、と言いたいわけです。

しかし、そうした言葉を発してしまうと、そこから「誰が正しいのかゲーム」(本当は誰に責任があるのかゲーム)が始まってしまいます。そのゲームは、あくまで恣意的な決定でしか決着がないので、基本的には堂々巡りというか泥沼合戦になります。夫婦生活としては、非常に不毛な争いです。

本当に誰が悪いにせよ(あるいは誰も悪くないにせよ)、相手の感情が傷ついているということそのものは事実としてそこにあります。そして、私たち(つまり私と妻)が目を向けるべきは、その事実です。「私は悪くない」争いをしていても、その感情的傷つきが言えることはありません。むしろ、別種の怒りを呼び込むことすらあります。不毛どころか、マイナスです。

だからまず、その事実を認める。その上で、言いたいのならば「そういうつもりはなかったんだ」と言って、できるだけ二人共が冷静にその言説について言い合える状況を作る。そのためのルールというわけです。

もちろん、夫婦は平等なので、どちらもが歩み寄るべきなのですが、感情的に傷ついてるときにはセルフコントロールは難しくなるので、感情的表明を受けた方が歩み寄るのが、バランスとしては最適でしょう。

もちろん、二人が同時に傷ついている場合はどうしようもありません。人間は完璧な存在ではないのですから、「そういうこともあるよな」を受け入れるしかないでしょう。

〜〜〜断続的読書メモ〜〜〜

『無責任の新体系』という本の感想を、断続的にTweetしていました。

開始のツイートが2月20日で、最終のツイートが3月27日なので、一ヶ月以上かかっている計算です。一章ごとに感想をツイートしていて、しかも毎日やっているわけではないので、ここまで時間がかかったわけですね。

そのぶん、作業の負荷はかなり小さいものでした。夜に時間があるときに、一章分だけ感想をツイートする。しかも、いきなりツイートだと敷居が高いので、以下のScrapboxページに書き抜きを作り、それをまとめながら、感想ツイートを作る。そういう手順を取りました。

ブログの書評だと、すべてを盛り込んだらひたすら長くなりますし、また労力の負荷も大きくなります。今回のように、連続的でありながらも、飛び飛びに細かく書いていく、というやり方は成果と負荷のバランスがなかなか良いものです。

あと、時間を置いて読み返すことになるので、長期記憶的にも良い影響があるのではないかと思います。

最初は短期間でざっと読み、その後に時間を掛けてじわじわと読み込んでいく。そういう読書スタイルも良いものです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけですので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 読書メモは作られますか。作られるとしたら、どんな風に作られますか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2019/04/01 第412号の目次
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○「自分の言葉で感想を書くことについての断章」 #物書きエッセイ

○「WorkFlowyとScrapboxその4」 #比較ツール論

○「後から見つけ出せるように一手間加えること」#整理の整理

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。


○「自分の言葉で感想を書くことについての断章」 #物書きエッセイ

次の記事を読みました。

◇「よかった」「いいね」って純粋に言いたい。 - 仮庵 (りびるど)
https://kariio-mao.tumblr.com/post/183278291169/%E3%82%88%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%AD%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%B4%94%E7%B2%8B%E3%81%AB%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%84

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 この話を聞いて「これってそう思っていいし、言っていいことだったんだ」とまず最初に思いました。理由はわからないんだけど、こういう自分のイメージを語ることって言うまでもなくダメなんだと勝手に思っていたんですね。
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 私の「感想」のつまづきって読書感想文からはじまっていて、思ったことをそのまま書いたらダメだったので、結局なにを書くのかわからないまま大人になってしまって。
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似た感覚をお持ちの方は、案外多いのではないでしょうか。

かくいう私も、ずっと読書感想文が苦手で、今でこそ書評記事をたくさん書いていますが、邪悪な精霊に「この世界の何を滅ぼしたい?」と尋ねられたら「読書感想文!」と即断するくらいに嫌いな宿題の一つが感想文でした。

そういう私が書評記事をバンバンアップするようになるまでには紆余曲折あったわけですが、それはそれとして、上の記事ではオールナイトニッポンでの星野源さんのトークの書き起こしがあって、ちょっとそれを孫引きしてみます。

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 でも、僕が思う嬉しい感想というのはこういう自分の中のイメージを喋ってくれたり、自分が生まれ育ったこの街を思い出しました、とか、海がすごい見えたんですよとか、子どもの頃の何歳の時のあのときの感じがすごいしたんですとか、僕の恋愛のあのときの感じがしたんですとか、何かそういう話をしてくれたり。あと、ばくぜんとすげー好きです、とか、すごくよかったですとかっていうのが、僕が嬉しくて。それが僕は音楽と一番ピュアに接している一番いいリテラシーなんだと思っています。僕は。
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私は本の著者であり、音楽のクリエーターではありませんが、この嬉しさってよくわかります。

読者さんからの反応って、さまざまなものがあるんですが、たった一言であっても、それこそ「よかった」や「面白かった」であっても、その人が何かしらの言葉で感想を言ってくれていると、すごく嬉しくなります。

比較してもあまり意味はありませんが、100万回「いいね!」ボタンを押してもらえるよりも、一言の感想の方が嬉しいです。

なぜか。

それは同じレイヤーに立つからです。

■表現という共通項

音楽なり本なりに触れて、そのとき心に生じたものを、言葉にして発すること。

これはリスナーや読者の行動でもあり、ミュージシャンやオーサーの行動でもあります。

ミュージシャンやオーサーが作り出すのはプロダクトですが、その根源が彼らの心のうごきであることは間違いないでしょう。

心に浮かんだものを、何かしら加工して、アウトプットすること。外に出すこと。

行動の骨子だけを見れば、両者に違いはありません。作り出し・送り出す側も、それを受け取って感想をつぶやく側も同じことをしているのです。

そこにあるのは、呼応であり、共鳴です。表現同士が、響き合っているのです。

そうした響き合いが、自分のアウトプットをトリガーにして起きているとしたら、それはもう掛け値なしに嬉しいでしょう。

技巧や装飾などは問題でなく、表現と表現が──心にあるものを外に出そうとするやじるしとやじるしの重なり合いが──そこにあるだけで、それはもう素晴らしいことが起きています。そういって構わないと思います。

■自身に作用する行為

別に「いいね!」を押すことが悪い、という話ではありません。それだって立派な好意性の表明です。

でももし、心に動きが生じているならば、それを少しでも言葉にして外に出してみること・表現してみることは、思っている以上にeffectがあります。

そのeffectは、単に作り手を喜ばせることだけに留まりません。自分自身に対する作用としても違いがあります。

もちろん、たとえ一言だってつぶやくのは簡単ではないでしょう。少なくとも、何かのつぶやきに「いいね!」を押すよりははるかに心理的・認知的なハードルがあり、負荷があります。

でもだからこそ、その行為には価値があります。

■抑圧とそこからの解放

昔は(というか今でも)読書感想文が大いに苦手で、大嫌いでした(苦手なものは、だいたい嫌いになりますね)。

なぜ嫌いだったかと言えば、本を読むのが苦手だったからではなく、本を読んだ感想が「面白かった」しかなかったからです。今から思えば、それ以上でも、それ以下でもない、本当に簡単な話です。

私の中で「本を読む」とは、その世界にどっぷりと嵌り込むことを意味します。その世界にアクセスし、作者が提示した視点(一人称 or 三人称)でその世界の出来事を、自分の中に通過させ、感情の動きを得る。それだけです。そしてページを閉じた私の中に生じる感覚は「ああ、面白かった」しかありません。一体それで、原稿用紙が何マス埋められるでしょうか。

読書中の自分は、ただただその世界を眺めているだけなので、読書感想文にありがちな「登場人物の○○は、とても頑張っていて偉いなと思いました」とか、「▼▼は友達を見捨てて酷いなと思いました」とか、そんなことを本を読みながら思ったことは一度もありません。

主人公が歯を食いしばっているときは、その歯ぎしりの音を自分の音として聞き、友達に見捨てられて心が痛んでいるときは、その悲痛さを自分のものとして受け止める。その瞬間、私という自我の認識と、登場人物はほとんど完全に融和しています。そんなときに「私」が何かを思うことはありません。

「私」が何かを思うのは、本を閉じた後であり、そこで出てくるのは、「ああ、面白かった」だけです。

でも、それでは読書感想文にはならないから、いくつかの「お手本」を参照して、マス目を埋めていくことになります。まったく思ってもみないようなことを、それらしく書き上げるのです。これほどの苦痛を要する作業が他にあるでしょうか(まあ、あるでしょう)。

しかも、そうして書かれる「感想」は、なんとなく「大人受け」するようなものが選ばれます。意識的か無意識的かは別にして、その時点で子どもが周囲の大人たちから要請されていると感じている「社会的規範」に合致するようなものが選ばれます。

「僕も▼▼と同じように友人を裏切って大金を得たいと思いました」という文章は、たとえ当人が本当はそう感じていたとしても歓迎されません。どちらかと言えば、incorrectとして扱われます。

つまり、自分の心の動きを、よくあるテンプレートと社会規範に合わせて、「あたかもそうであるかのように」記述させられるのです。

最近では、掛け算の順番が逆だとバツにされる、という喜劇みたいな話を聞きますが、上のような読書感想文の書き方は、教育というよりも抑圧に近いものです。「思ったことを、そのまま書きましょう」と言いながら、最低文字数の制約があり、規範外の心の動きを回避させるような雰囲気があります。

それが教育機関の役割なのだ、と言われてしまえば返す言葉はありませんが、それでも、上記のような「感想」の書き方と合わない人たちは、きっとそれ以降の人生で「読書感想文」を忌み嫌って生きていくことになるでしょう。非常に悲しい出来事です。

幸いなことに、私にはブログがありTwitterがありました。そこでは、自由に感想が書けます。「面白かった」の一言でも十分に表現になり、また、それで何かを誰かに伝えられます。読書感想文的恐怖はありません。

■一言に込められたものに思いを馳せる

私はまた、自分が「面白かった」としか言えないので、「面白かった」という一言の感想にあらゆる感情が詰まっている可能性があることを知っています。何かを感じていても、それがうまく言葉にできないことってあるのです。

そういう状況で絞り出された一言には、やっぱり価値があります。そのことを、私は知っています。そして、表現を生業にしている人ならば、皆そのことを知っていると思います。

彼らは批評家ではありません。ジャーナリストでもありません。簡潔に、明瞭に、事実を記述する仕事をしているわけではありません。むしろ、言葉では簡単に表しきれない心の動きがあるからこそ──逆説的ではありますが──言葉を使って表現を行っています。

だから、心の動きのままに、テンプレ的文言ではなく自分の言葉で、そのときの表現力の幅の中で、感想を書けばいいのです。それを咎める教師は、どこにもいません。

これは、とっても幸せなことだと私は思います。

■心に注意を向ける

また、感想を言葉にしようとしていると面白いことが起こります。感覚に変化が訪れるのです。

たとえ一言であっても、自分の心の動き表現しようとすると、その動きを見つめなければなりません。自分は何を感じているのかに、自分が注意を向けるようになるのです。

人間の感覚というのは不思議なもので、注意を向けるようになると、徐々にその感覚が鋭くなってきます。解像度が上がる、という言い方もできるでしょう。

人間の知覚は、差異を見つけ出すようにできています。最初のうちは大きな枠組みの差異しか知覚できなくても、その知覚に慣れてくると、少しずつそれが細かいレベルに移行していく、ということが起きているのかもしれません。

ともかく最初は「面白かった」としか言えなくても、そう言っているうちに、徐々に「どう面白かった」のに注意が向くようになってきます。少なくとも、私はそうなりました。

今でも、私は小説の感想を「面白かった」としか表現できませんが、それでもどんな点に自分が面白さを感じているのかについては考えられるようになりました。ある作品を読んだときの「面白さ」と、別の作品を読んだときの「面白さ」を比較できるようになった、ということなのでしょう。

そんな比較ができるようになったのも、「面白かった」という簡素な感想を許容したからです。もしそれを許容できずに、感想について表現することを辞めていたり、あるいはテンプレ的文言で処理していたりしたら、こうした変化は訪れなかったでしょう。

自分の言葉で表現しようとする、という心の動きが、大切なのだと思います。

■遮断された空間にこもる贅沢

もう一つ、自分の心の動きについて考えていると、静謐な空間が意識の中に生じる効果もあります。

その空間にいるあいだは、周りからの刺激やインプットは遮断され、ただただ思索や観察や分析や、そこまで大げさな表現を必要としないあらゆる意識の体験が展開していきます。

内側にこもること。

線を引き、斎の向こう側にいくこと。

現代では、ずいぶん贅沢な時間の使い方になるのかもしれません。でもって、これくらい内側にこもれる行為は、おそらく読書や音楽を聴くことくらいしかないでしょう。

やっぱり、同じレイヤーなのです。

■そとむきのやじるし

結論として言いたいことは特にはありませんが、自分の心に動きがあるとき、それを言葉にしてみようとすることは、人生の楽しさの一つではあるでしょう。

極めて短い言葉であっても構いませんし、連想した何かを語っていくのでも構いません。テンプレ的文言は手抜きですが、五・七・五などのフォーマットなら外に出す手助けになります。

やじるし。

私→

こういうやじるしを引くことが、なんであれ表現です。

すべての表現と、表現者に幸あらんことを。

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