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作業記録で生まれた変化 その1/僕らの生存戦略奮闘記vol.3/ワニの話

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/03/23 第493号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

そろそろ体調も戻りつつあるので、再びうちあわせCastにいろいろなゲストさんをお迎えしたいなと考えております。

なにしろ体調が悪いときは、波があるのです。でもって、その波は読めません。いつ調子が良くて、いつ調子が悪いのかの予測ができないのです。そのような状況では、アポイントメントはとりにくいものです。

もちろん、当日になって体調が悪ければ、リロケーションすればいいのですが、そのリロケーション後の日付も体調が悪ければ、再びリロケーションとなってしまい、あまり感じが良い状況にはなりません。

なので最近はその手のお誘いやイベントごとは避けていたのですが、ぼちぼちそれも再開できそうです。

とは言え、あまり焦らず、体調の様子を見極めながら、進めていきたいところです。

〜〜〜時間食い虫〜〜〜

最近は、RSSリーダーやタイムラインで見かけた気になる記事を、そのときはすぐに読まず、作業記録の「あとで読む」の項目に書き留めておいて、後からまとめて読むように心がけています。脱線の抑制ですね。

で、そうして書き留めていると、実に多くの記事を読もうとしていることがわかります。知的好奇心が豊かと言ってしまえば、それまでですが、記事を読むことに時間を取られていることは間違いありません。

夜になって、「あとで読む」を読もうとしても、とてもすべてを読みきれない場合も多々あります。逆に言えば、普段はそうした記事をバンバン日中に読んでいて、作業時間を削っていた、ということです。

記事を見かけたときと、記事を読むときに「間」(あいだ)を設けること。それによって、時間の使い方も変わりつつあります。

〜〜〜説得力〜〜〜

ショッピングモールの広場で、健康系ガジェットのお試し会が開かれていました。装置をつけて座っているだけで筋トレになる、といった系のマシーンを実際に試せる会です。

で、だいたいは男女二人のスタッフの方がおられて、男性の方はさわやか系男子、女性の方はすらっとしたエリートビジネスウーマン的な雰囲気(あくまで雰囲気)でした。だいたい見かけるたびに、何人かの「お客さん」が実際に装置を試しながら説明を受けたり、アンケートに答えられたりしていたので、なるほど興味を持つ人は多いのだなと関心していた次第です。

しかし、あるとき、たまたま二人のスタッフの方の休憩時間だったのか、別の男性がひとりだけ会場におられました。その方は、ふくよかな体型をしておられて、頭髪の方も若干底が見えかけているような状況です。ようするに、よく見かけるいかにもおっちゃんっぽいおっちゃんですね。

で、興味を持ってしばらく眺めていたのですが、これがもう、見事に誰もお客さんが来ません。話しかけようとしてもスルーされ、話しかけようとしてもスルーされ、話しかけようとしてもスルーされの繰り返しです。

やっぱ、説得力って大切なんだな、としみじみ感じた次第です。

〜〜〜「ゆっくりする」の定義〜〜〜

日曜日のことです。メルマガ作業も午後の早いうちに終わり、配信登録を終えてしまうと、気持ちにも一段落が生まれてきます。

「さあ、今日はゆっくりしようか」と思いました。

その次の瞬間、「ゆっくりするって、一体何をするんだ?」という不安にも似た気持ちが湧いてきたのです。

基本的にワーカーホリックなので、時間があればパソコンに向かい、いろいろごちゃごちゃやってしまうのが習慣になっています。言い換えれば、心理的なモードとして、仕事のオン・オフの切り替えがありません。

よって「ゆっくりする」という心がけも、「ゆっくり仕事をする」とか「特に急ぎでない作業をやる」という行為に簡単に変換されてしまいます。

健康優良児として過ごした30代ならともかく、これからの人生はそのような走りっぱなしの状況ではきっと続けていけないでしょう。意識的に「ゆっくりする」ことが必要だと感じます。

もしかしたら、「何をおおげさな」と思われている方がいらっしゃるかもしれませんが、これまで「ゆっくり」してこなかった人間が、「ゆっくり」し始めるというのは、新しい習慣を獲得することとまったく等価です。そして、新しい習慣を獲得するのが非常に難しいことを思えば、意識的に「ゆっくり」しようとすることはなんらおおげさな話ではありません。

とりあえず、毎週日曜日の夕方以降は「ゆっくり」してみる。そのために、どんな具体的な行動があるのかを実験しながら探り出していく予定です。

〜〜〜情報教養の書〜〜〜

インターネットやらニュースやらを見ていると、『デマ・カルト・情報商材に踊らされないための心がけ20』みたいな一冊が求められているのではないかと痛感します。

*本当はここに「自己啓発」も入れたいところなのですが、自己啓発には「善き自己啓発」(古典的な名著)と、「悪しき自己啓発」(閉鎖的で高額なセミナー)が混ざっているので、なかなか言及に踏み切れません。なので、とりあえず冒頭の三つだけをタイトルにいおいておきます。

人間の生活にとって「情報」が有用、不可欠であるのは指摘するまでもありませんが、ここまで爆発的に情報が交流するようになった時代はいまだかつてないでしょう。でもってそれは、善き意図のもとで送られるギフトのような情報と、他人を罠にはめるトラップのような情報の両方が爆発的に増えたことを意味します。

それはつまり、これまでは10万人に一人くらいが騙されていた状況が1000人に一人くらい騙されるようになったというように、騙されることがより「身近」になってきたことも意味するわけです。

知的エリートになるための知的技術ではなく、徹底的に実用的な知的技術を伝授する本。親が教えにくい技術でもありますので、潜在的な需要は高いかもしれません。

〜〜〜まず前提が必要だ〜〜〜

世の中には、「健康だからできる健康法」「金持ちだからできる節約術」のようなノウハウがあります。もちろん、嘘が書かれているわけではありません。きちんと実践すればたしかに効果が上がるのでしょう。

しかし、その(健康だからできる)とか、(金持ちだからできる)の部分は省略されていたり、うまくごまかされているので、そもそも健康であるという前提を持たない人がチャレンジしようとしても、結局どうしようもない、という事態に陥ります。

もちろん上記は単なる例であり、一種のたとえ話です。よくある構図はノウハウを紹介する本にはたくさん広がっているので読むときには注意が必要です。

〜〜〜ときどきシェイクする〜〜〜

ごくたまに、Twitterでフォローする人を変えます。新しい人をフォローして、すでにフォローしている人をアンフォローするのです。

大きく変えるようなことはしません。せいぜい数人の変化です。それでも、全体としてたくさんの人をフォローしているわけではないので、タイムラインの雰囲気は結構変わります。

他にも、普段いく場所とか、定期的に読むものとか、いつもの時間の使い方をごくたまにかき混ぜて、新しい風を取り込むことはきっと有用でしょう。個人の選択肢が限られていた時代では得られなかった有用性かもしれません。

〜〜〜アイデア出しの組み合わせ〜〜〜

まったく個人的な体験からの推測で申し訳ないのですが、一対一での「ブレスト」(あるいはそれに類するもの)で、一番アイデアが広がるのが、闊達な人と闊達な人の組み合わせです。

自説を展開しつつも、相手の話を聞き入れ、自説をバージョンアップしたり、アレンジしたり、ときには全否定できる精神の自由さを持っている人同士だと、アイデアはどんどん広がっていきます(逆に決定案がなかなか決まらないデメリットもあります)。

一方、頑固な人同士の場合、そのようなアイデアの変遷はほぼ期待できません。お互いが自説を主張して一歩も譲らず、という相撲のような状況になります。そのまま平行線をたどって会議の時間が終わるか、あるいはどちらの立場が上なのかという肩書で決着がつくことがほとんどでしょう。

では、闊達な人と頑固な人の組み合わせではどうでしょうか。これは一見闊達&闊達の下位互換のように感じられますが、案外そうではありません。

頑固な人は自説を曲げない慣性を持っているという前提で、闊達な人がなんとか自説を伝えようと、手を変え品を変えして話を展開していくのですが、それが一人では(もっと言えば頑固な人が目の前にいる状況でなければ)出てこなかったアイデアを生み出すことにつながります。頑固な人が一種の「制約」(あるいは悪魔の代理人)として機能して、闊達な人の頭をフル活動させるわけです。

というわけで、組み合わせというのは大切です。あと、少し敷衍して言えば、人類すべてが闊達でなくても、あるグループに数%闊達な人が混じっているだけで、アイデアの発展には十分かもしれません。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

現代の経済学で主流になっている新古典派は、それが正しいからではなく、政治的な理由からである、というなかなか過激な主張のもと、経済学の教科書では紹介されないような「異端」の学説を集めた本のようです。面白いコンセプトですね。

タイトルをストレートに解釈すると「思考は現実化する」をカッチョよく言い換えただけのような気もしますが、「地図なき時代を仲間と切り拓くイノベーション実践36の智慧」ということなので、実践的なノウハウが紹介されているのでしょう。イノベーションとノウハウ、というのはあまり結びつかない気もしますが。

もう、タイトルでガツンとやられてしまいますね。人類の歴史を、スクエア(人的ネットワーク)とタワー(階層制組織)の視点から捉え直した一冊です。私風に言い直せば、ヨコかタテか、ということですね。副題は「ネットワークが創り変えた世界」なので、一般的にタワーが世界を動かしてきたように思われるが、実はそうではない、という論の進め方をされるのでしょう。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップがわりにでも考えてみてください。

Q.「さあ、今日はゆっくりしよう」と思ったとき、どんなことをされますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2020/03/23 第493号の目次
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○「作業記録で生まれた変化 その1」 #タスクリストのつくり方

○「僕らの生存戦略奮闘記vol.3」

○「ワニの話」 #やがて悲しきインターネット

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「作業記録で生まれた変化 その1」 #タスクリストのつくり方

最近、日々の作業記録をnoteのサークルで公開しています。新しいもの試したさ半分、自分を律するため半分で始めたこの作業記録の公開ですが、予想以上に私のワークフローに影響を与えています。今回は、そのお話をしてみましょう。

ワークフローへの影響はタスク管理方面と知的生産方面の二種類があるのですが、まずはタスク管理方面からいってみます。

■時間に注意を向ける

日々の作業記録は、一時間単位でセクションを作っています。11時台でひと枠、12時台でひと枠といった感じです。まず、このセクションの作り方で、これまでよりもずっと時間(o'clock)に注意を向けるようになりました。

これまでのデイリータスクリストでは、「おそらく処理するだろう順」にタスクを並べていましたが、そこには時間枠の設定がありませんでした。せいぜい、「午前中にこれをやろう」「夕方ごろまでにこれ」「夜にはこれ」くらいの感覚で作業を配置していたのです。一日が三分割しかされてない、非常にアバウトな感覚です。

しかし、一時間単位でセクションを作り始めると、時間感覚の解像度がぐっと上がり始めました。今は何時であるのか、ということに注意を向けるようになったのです。一時間一時間ごとに「節目」が生まれ、一日が二十四分割されるようになったとも言えるかもしれません(実際は起きている時間だけなので、もう少し分割は荒いですが)。

フリーランスで自由に作業していると、どうしても時間の感覚が曖昧になってきます。予定も特になく、いつ仕事を始めても、いつ休憩に入っても、いつ仕事をやめても、まったく自分の自由だからです。結果、それは時間を「豪遊」する結果を引き起こします。

今回一時間ごとの節目が生まれたことで、「豪遊感」は少し減りました。1万円札を、千円札10枚に両替したような気分です(たぶん、お金持ち感が若干薄れるでしょう)。

さらに、この節目の誕生によって、二つのものが生まれました。宣言と間です。

■宣言

この「作業記録」ですが、行った作業の記録だけではなく、「今から〇〇というタスクに取り掛かります」のようなスタートの段階から書き込みをしています。

これは、『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』で書いた「宣言法」に等しい効果を持ちます(というか、そのものかもしれません)。

結城浩先生(@hyuki)も、Twitterでよくこれから作業に入る「宣言」をよくやっておられますが、他人の目に触れる場所に、そうした宣言をちょこっと置いておくだけで、「脱線」に抗う力が拡大することは間違いありません。

何かを思いついてツイートしようとすると、「さっき、作業に入るって言ってたのに、なんだタイムライン見てるじゃん」と思われるような気がしてきて、Twitterから離脱できるようになる(可能性がアップする)のです。

もちろん、本当にそんなことをいちいち気にしている人がいるかはわかりません。単に、「そう思われるかもしれない」と自分が勝手に想像して、行動を抑制しているだけの話です。

きっと勘の良い人はパノプティコンを連想されたでしょうが、SNSや共有している作業記録を使うことによって、セルフ-パノプティコンを作っていると言えるかもしれません。

「監獄」のイメージを持ち出すのはいささかやりすぎのようにも思えますが、そもそも多くの規範とは「他者の目」から引き起こされるものですし(この点が善行と区別される点でもあります)、自分で自分を律することとは、ある状態に自分を「留めておく」ことでもあるので、監獄のイメージはそれほど行きすぎたものではありません。
*自由とは監獄の中に入っているかどうかではなく、入る監獄を選べることだと個人的には思います。

と、話が脱線しつつあるのでぐいっと引き戻しますが、他者の目に入る場所に「宣言」をおくことで、その作業からの脱線を抑制する力が生まれるようになった、というのが一点目です。

それに加えて、宣言をすることで「今からは○○(という作業)の時間」と自分に言い聞かせる効果も同時に発生します。心のモードが、その作業に向かいやすくなるのでせす。

普通に作られたタスクリストの場合、タスクへの操作は、Doneのみとなります。言い換えれば、「着手」を明示できるツールはあまりありません。古いツールではToodledo、最近のツールでは「たすくま」がその機能を持っていますが、一般的なタスクリストツールではほぼ見かけません。

そうなると、タスクリストのどのタスクを「今」実行しているのかは、その人の作業記憶の中にしか存在しないことになり、その事実は容易な脱線や、なんとなくの別作業への移行を引き起こしてしまうでしょう。

逆に宣言をしてから作業を始めるようになると、「今」自分がどんな作業をしようとしているかについて自覚的になりますし、また記述としても残ります。単純にタスクリストを使っているときよりも、そのタスクに向かわせる力が強まる、ということです。

この「宣言」が持つ力はなかなか馬鹿にはできません。
*もちろん、宣言したからといってすべてのタスクが脱線なく達成できるわけではないことは言うまでもありません。

■間が生まれた

また、作業記録をこまめにつけるようになると、作業の終わりと次の作業の開始に「間」ができるようになります。

作業が終わる→作業記録をつける→次の作業を宣言する→作業に取り掛かる

簡単にいえば、何かの作業が終わったら即座につぎの作業に取り掛かるのではなく、その時間に何をやったのかの「振り返り」が行われるようになったのです。急ぎ足で駆け抜けていくのではなく、合間合間に立ち止まるようになったと言えるかもしれません。

これは、最近の私のテーマでもあり、このメルマガでもときどき記事を書いている「ゆっくりを取り戻す」の感覚に非常に近いものです。言い換えれば、「ゆっくりを取り戻す」ためには間の確立が重要だ、ということです。

単に「ゆっくりを取り戻した」だけではありません。その時間にやった作業の振り返りを行い、その次に行う作業をはっきりさせることには、作業全体の流れをスムーズにする効果があります。簡単にいえば、それをやっておけば、次に同じプロジェクトの作業に着手するときに、「あれ? 次何やるんだっけ」というような進捗状況の迷子にならなくても済むのです。

同種のメリットは、テキストファイル管理にGitを使っているときにも感じていました。Gitではファイルをコミットするときに、コメントをつけることが義務付けられます。それを書くことは、作業の振り返りであり、タスク管理用語でいえば瞬時レビューにあたるでしょう。

作業記録を細かくつけていくことは、この「コメント」をGitを使っていないあらゆる領域に広げることを意味します。ファイル操作を伴わない作業や、単に考えるだけの作業においても、「コメント」を残すことができ、作業の流れを整える役に立ちます。これは、実用的に言っても非常に効果のあることです。

とりあえず、作業記録書き留める時間は、振り返りの時間であると共に、次を見据える時間でもあります。これは、反応的なものから、「今」に帰ってくる時間であると言えるかもしれません。

■確立された読書時間

宣言と間以外にもう一つ、「時間割」のようなものも生まれつつあります。

たとえば、今のところ夜の7時から8時までは「読書時間」に割り当てられています(なぜか受け身の表現が似合う)。この時間は他のこと──iPhoneをチェックすることを含む──をせず、ただ本を読むのです。

同じことは、「夜に一時間読書をする」というルールでも実現できるでしょうが、そのルールよりも、「夜7時から8時までは読書時間」というルールの方がはるかに強制力は強いものです。それは作業記録の区切りが心理的な区切りと対応している点と、「夜に一時間読書をする」という曖昧なルールではいくらでも先送りできてしまう点が関係しているのでしょう。

とりあえず、夜7時になったら、作業記録に「読書の時間です」と書けば、心は一気に読書モードに入ります。「他のことをした方がいいんじゃないか」というような迷いも生まれず、本読みに集中していけます。これはとても気分が良いものです。

この効果を拡大して、もう少し「時間割」を増やしていきたいとも考えていますが、あまりきちきちに決め事を増やすと、(自分の性格からいって)間違いなく嫌になってくるので、せいぜいあと一つか二つくらいがちょうど良いだろうと予想しています。

■さいごに

以上、共有作業記録をつけ始めるようになってからのタスク管理的な違いをいくつか書いてみました。全体としては、作業能率は上がっていると思います。作業記録をつける、という作業行為自体は増えているのですが、それに見合う(あるいはそれ以上の)能率が得られている感覚があります。

一応まだ体調が完全復帰しているわけではないので、作業量を抑えて1日を過ごしているので「生産性」については比較できない状況ですが、おそらく著しく悪くなっていることはないでしょうし、もしかしたら上がっているかもしれません。

ともあれ、「生産性」についてはもう一つの側面の変化、つまり知的生産方面の変化も関係してきます。その変化については次回紹介するとしましょう。

(つづく)

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