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Scrapbox知的生産術04 / 考えるためのツール:Drummer / 社会不適合者の武器としてのプログラミング

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/05/23 第606号

「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百四回:Tak.さんと個人メディアと連載について 作成者:うちあわせCast

今回は、最近スタートされた「アウトライナーライフ」という定期購読マガジンについて、Tak.さんにお話をうかがいました。個人的に非常によくわかるお話が多かったですね。

アウトライナーライフは以下です。

〜〜〜Logseq連載〜〜〜

最近熱が高まっているLogseqについて、再びブログで記事を書きました。

◇Logseqを使う その1 – R-style

なんとなく、昔のような界隈の熱(ただし微熱)を感じております。

連載リンクについては以下のScrapboxページにまとめてあるので、ブックマークなどはこちらが便利かもしれません。

◇「Logseqを使う」連載 - 倉下忠憲の発想工房

〜〜〜情報整理ダイアローグ〜〜〜

ベックさんと共同連載している「情報整理ダイアローグ(仮)」の倉下担当が一旦終了しました。

◇情報整理ダイアローグ(仮)|倉下忠憲|note

結局20回以上も書いてしまい、ボリュームはえらいことになっています。その上、話もさまざまな方向に枝葉が伸びているので、まとめる際はかなりの「伐採」が必要となるでしょう。

ともあれ、こうやって書いてみるからこそ「伐採すべきもの」がはじめて見えてくるわけで、やっぱりとりあえず書いてみることは大切ですね。

連載はまだベックさんの分が残っておりますので、引き続きお楽しみください。

〜〜〜人間関係の変化〜〜〜

人間関係というのは、時間と共に変化します。ずっと同じではありません。それは、人間というものがずっと同じではないからです。

ある人が変化したら、その人の周りの人も変わっていく。

そういうことが起こります。当然、そうした周りの人から影響を受けて、さらに当人も変化していきます。非常にダイナミックな状態がそこにはあるのです。

たとえば、ある人がそれまでと違った道に進んでしまい、その周りから「まともな人」が離れていくと、当然そうでない人が残ることになります。その状況が、さらにそうでない人を引きつけ、さらに周りの人と当人を変化させてしまう。そういうことが避けがたく起こってしまうのです。

そもそもとして、最初に「違った道を進む」という決断をしたことも、周りの人の影響が出ているのかもしれません。だとすれば、こうした状態に対して「誰が悪い」と考えるのはあまり意味がありません。

だからといって、自分が付き合う人間について深く考えなくてよいわけではないでしょう。むしろ、自分に影響を与える存在なのだと理解した上で、その付き合い方を考えていく必要があると思います。

なんにせよ、人間関係は動的なものです。新しく生まれることもあれば、古いものが途絶えることがあります。それが「当たり前」(というよりも、むしろ健全)な状態だと考えておくのが健康的でしょう。

〜〜〜視聴アニメ〜〜〜

今期放送している『勇者、辞めます』という作品があります。原作は『勇者、辞めます〜次の職場は魔王城〜』(クオンタム )というライトノベルです。漫画もあります。

勇者、辞めます ~次の職場は魔王城~ (富士見ファンタジア文庫)

勇者、辞めます (1) (角川コミックス・エース)

ストーリーとしては、魔王軍による人類進行を食い止めた勇者が、しかし人類から迫害されて居場所をなくし、流れ着いた「再就職」先が──当の本人が壊滅させた──魔王軍だった、という状態から始まる物語です。

こういうストーリーも面白いのですが、そこで展開される「魔王軍四天王の再教育」が実に興味深い内容です。簡単に言えば「マネージャー養成講座」なのです。人を育てるとはどういうことか、組織で仕事をするとはどういことかが、実例と共に示されます。

振り返ってみると、少年漫画のヒーローは徹頭徹尾個人主義なわけで、そうしたメディアに触れているだけでは、マネージャーの素養は育まれないでしょう。その意味で、本作品は新しい文化の萌芽が予感がします。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. あなたはマネジメントの経験をお持ちでしょうか。それをどこで学ばれましたか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回はScrapbox知的生産術の04と、二つの記事をお送りします。

「Scrapbox知的生産術04」

それにしても、一体何が問題だったのだろうか。

EvernoteやWorkFlowyではアイデアをため込み過ぎ、他のツールでは蓄積が継続しないという経験は、何に由来するものだったのだろうか。

もちろん、未熟さが一番大きいだろう。二つの側面における未熟さである。

■未熟さその1

まず一つ目は、私自身の未熟さだ。

Evernoteを使い始めた頃は、物書きの仕事を始めたばかりだった。ブログなどで文章を書くことは続けていたが、仕事として知的生産を継続的に行った経験はなかった。「知的生産」という行為に関して、圧倒的に経験不足だったわけだ。

知識にしても、それなりに知的生産の技術書を読んではいたが、体系的な理解にはほど遠かったし、そもそも実践経験が不足していたので表面的な理解に留まっていた。

さらに私が読んでいた知的生産の技術書は、基本的にすべて「アナログ」ベースでの技術だった。一方で、私の使っている道具の大半は「デジタル」だった。その二つにどれほど大きな違いがあるのかは、その時点の私にはまったくわかっていなかった。

上記のように、経験も知識も不足している状態では、新しいノウハウを立ち上げることなど望むべくもない。ある意味で、うまくいかなくて当然だったと言えるだろう。

■未熟さその2

そこにさらに、二つ目の未熟さが関わってくる。ツールの未熟さである。こちらは「未成熟」と呼んだ方がいいかもしれない。

10年ほど前はEvernoteもまだ黎明期であり、大きなビジョンは打ち出されていたものの、具体的にどんな機能を実装すればそのビジョンが達成できるのかは見えていなかった。そうした機能を探り探りしながら進んでいく、暗中模索な状態だったと言える。

Evernoteに限った話ではない。どんな機能を実装すれば、個人の知的生産に役立つのかは、ソフトウェア界隈においてもほとんど共有されていなかったように思う。

結局ソフトウェアもまた、その時代に生きる人間が開発するものであり、そうした人間に経験と知識が備わっていなければ、目指すべき方向が具体化されることはない。10年前にツールが未成熟だったのは、至極当然だったと言えるだろう。

そんなわけで、利用者もツールも共に未熟であったのが10年前である。これではうまくいくはずがない。

■そのときならではの

もちろん、そうした黎明期特有の面白さや楽しさはあった。さまざまな試行錯誤が求められたし、そこから特別な発見もたくさん生まれた。それはそれで幸福な時代だったのだと今から振り返ってみれば思う。

しかし、どれほど楽しかろうとも、力不足であったことは否めない。特に、利用者の(つまり私の)知識不足はずいぶんと大きかったように思う。
*人生の多くの場合と同じで、そうした知識の欠落はずいぶん後になってから気がつくものである。

多くの知識を漠然したままに「理解」し、自分の頭で勝手につなぎ合わせて、全体像を「創造」してしまっていた。そうした全体像は、勝手な創造物であるがゆえに、完璧さという光をまとっているのであこがれの対象になるのだが、それが実際に自分の手に入ることはない。

もっと具体的に、もっとそれを使う自分のリアルに沿って、ツールとその利用法を検討しなければならない。そういうことが、ぜんぜんできていなかったわけだ。

■アイデアの扱い方という壁

そうした知識不足の中でも、一番大きかったのが「アイデアの扱い方」についてである。「アイデア」という情報を、どのようにハンドリングすればいいのかがわかっていなかった。それはそのまま「カード法」を理解できていなかったことも意味する。

一つの証左として、7万ほど存在している私のEvernoteのノートの中で、5000ほどのアイデアノートだけが唯一うまく使えていなかった点がある。逆に言えば、残りのノートはうまく使えていたのだ。

アイデア以外の、Webスクラップ、プロジェクトノート、備忘録、住所録、エトセトラ、エトセトラ。そのようにして保存してある情報は、毎日頻繁に利用するほどではなくても、必要に応じて検索し、取り出して使うことができていた。

しかし、アイデアノートだけはうまく使えなかった。今思えば「アイデアノートをうまく使うとはどういうことか」が、その時点ではわかっていなかったのだろう。うまくいかないのも当然である。

「アイデア」は他の情報とは違った性質を持っている。よって、その扱い方も他の情報と変えていかなければならない。

そういう事実に気がついていなかったのだ。

それもそのはずで、「Evernoteにすべての情報を集める」という方針を立てたり、「すべての情報をカードという共通規格にまとめると良い」という(かなり大ざっぱな)理解をしていた私には、そうした違いなど目に入ることがなかった。

むしろ「すべてを均一的にすることで、効率的に処理できる」というネオリベラルのような(あるいは極ライフハッカー的な)思想に染まっていたと言っていい。恥ずかしい限りだ。

逆に言えば、「アイデア」という情報の性質を理解することで、「カード法」が何をやっているのか、なぜそれをやっているのかが理解できるようになる。本来は、その理解こそがスタート地点になるはずだったのだ。

そこでまず、「アイデア」についてちょっと考えてみよう。

■アイデアという情報

「アイデア」とは何だろうか。

有名なジェームス・W・ヤングの『アイデアのつくり方』によれば、アイデアとは「既存の要素の異なる組み合わせ」だと言われている。シンプルな定義だ。

たとえば、Aに結びついているBという要素があり、Cに結びていているDという要素があるとき、AにDをくっつけたり、CにBをくっつけたりすれば、それが「アイデア」と呼べる、ということだ。

これはアイデアの定義ではあるが、しかしアイデアの性質を示しているわけではない。むしろ(本のタイトル通り)アイデアの作り方を示していると言えるだろう。

■カードを使う

さて、上記のような「新しい組み合わせによるアイデアの産出」を意欲的に行えるように、著者のヤングは二つの習慣を読者に勧めている。

一つは、5インチ×3インチのカードに自分が得た「特殊な知識」を書き留めていくこと。もう一つは、一般的資料を貯えるためにスクラップ・ブックやファイルを活用すること。

面白いことに、ここでもカードの利用が推奨されている。そして、こうしたカードや蓄積したファイルを読み返し、そこに記載された事実をさまざまな角度から検討した後に起こる出来事を著者は次のように述べる。

>>
諸君がこの段階を通りぬける時、次のような二つのことが起こる。まず、ちょっとした、仮の、あるいは部分的なアイデアが諸君を訪れてくる。それらを紙に記入しておくことである。どんなにとっぴに、あるいは不完全なものに思えても一切気にとめないで書きとめておきたまえ。
<<

『アイデアのつくり方』

こうしたアイデアを書き留めるためにも、5インチ×3インチのカードは役に立つというわけだ。

ノートではなくカードに書くことで、さまざまな組み合わせを試すことができる。言い換えれば、一枚のカードに一つの事柄を書くこととは、情報を単位化・項目化することを意味する。項目化とは「操作可能な対象にする」くらいの意味合いで捉えてもらえばいい。

まさしく梅棹のカード法が目指していたアプローチである。

しかしながら、その手法を安直に捉えてしまうと、たとえばカルタ遊びのようにカードを地面に広げ、無作為に二枚のカードを選び出して、それらをくっつけてみる、といった操作が頭に浮かぶかもしれない。私も当初は、そういうイメージで「カード法」を捉えていた。

だが、そうした操作のイメージを持っている限り、デジタルではなかなかうまくいかないことに気がつく。「カルタ遊びのようにカードを地面に広げる」ことが相当に難しいのだ。

単に画面の広さの問題もあるが、それ以上にカードを適当に散らばらせることができない。デジタルではソートによる整列が基本なので、すべてが奇麗に順番に並んでしまう。「ランダムで、適当に並べ直す」のようなボタンがついたノートツールはほとんど存在しないのだ。

私はこの点がツールの未熟さであると思っていた。もっとツールが「意欲的」に開発されれば、そういうカードの並べ方もいずれできるようになるし、なるべきだとも思っていた。

でも、それは浅はかな理解による、勝手な理想の創造だったのだ。

■情報整理における「アイデア」

では、どんな操作ができればいいのか。それについて考える前に、ここで私なりの「アイデア」の定義を提出しておこう。

「その時点では具体的な用途が決められない、ちょっとした思いつき」

注意していただきたいのは、この定義はあくまで情報整理における「アイデア」の定義である点だ。言い換えれば、「いかに情報を扱うのか」という視点からアイデアを定義している。

そして、この定義に従えば、アイデアとは「どう扱うのかその時点では決められない」情報ということになる。

たとえば「この思いつきは、明日のブログで使おう」と判断できるなら、それは「アイデア」ではない。それは「ネタ」になる。「ネタ」に関してはネタ帳に保存すればいい。しかし、ネタでないものはネタ帳には保存できない(定義から言ってそうなる)し、ネタと同じような扱い方もできない。

もちろん、広義で言えば、ネタもまたアイデアである。一番大きい「アイデア集合」にはネタやジョークやその他さまざまなものが含まれている。しかし、そうしたものは個別の扱い方が設定できる。よって処理に悩むことはない。

そうした「処理に悩むことはない」ものを集合からどんどん取り除いていって、最後に残るものが、狭義での「アイデア」というわけだ。そうした情報は「アイデア」と呼べるというか、「アイデア」としか呼べないというのが近しいだろう。

■さいごに

以上のように、一口に「アイデア」と言ってもさまざまなものがあることを理解しつつも、一番扱いが難しいものにフォーカスするためにそれを「アイデア」と呼ぶことにする。

これが最初の一歩である。

(つづく)

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