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競争とは異なる原理において:『「分かち合い」の経済学』を読んで

「世界を愉しむ」というテーマでさまざまな本を読んでいく題読の二回目は、「生きのびるための岩波新書」フェアから神野直彦氏の『「分かち合い」の経済学』を取り上げる。

まずは概略を辿ろう。現在は資本主義まっさかりであり、しかもその危機が叫ばれているが適切な処方箋は見当たらない。すべてがそれによってうまく調整され、適切な資源の分配が(まるで見えない手に導かれるように)行われると言われていた競争原理は、むしろ貧困などの格差を悪化させる症状を隠すことなく生み出し続けている。

では、どうするのか。著者は書名にあるように「分かち合い」を提示する。競争原理とは異なる原理によって、人々の生活に新たな希望の息吹をもたらそうとする。

競争は絶望を、「分かち合い」は希望をもたらすといってもいいすぎではない。

構想がもたらす絶望は、マーク・フィッシャーらの資本主義批判からも強く感じ取れる。私たちはどこまでいっても市場=競争の原理性から逃れることはできないのではないか。端的に言って、それは絶望だろう。オルタナティブなき絶望。

しかし、「分かち合い」はそこに希望をもたらすという。しかし、それは待っていれば自然と訪れる(見えない手による)救済ではなく、能動的に孤立した人間たちが行動を起こしてこそ生まれる希望だと著者は述べる。

そこでまず現状とそれまでの経済の流れが確認される。第1章から第2章がその担当だ。続いて第3章では日本が置かれている状況が確認される。産業構造の変化と高度経済成長によって、社会の枠組みが変わってしまったが、しかし適切な変化を制度側が起こせていない。その上、家族や共同体が担っていた生活保障機能が前提であえる「小さな政府」が、前提が崩れたことでもはや立ち行かなくなっていることもほぼ明白である。結果的に、さまざまなサービスが提供されず、人間らしい暮らしが失われつつあると著者は述べる。

続く第4章からがいよいよ「分かち合い」であり、以下の指摘が極めて重要だ。

ポスト工業社会つまり知識社会になると、「分かち合い」の原理が決定的意義を持つ。

なぜだろうか。ドラッカーが指摘したように知識労働者とは自身の知識を持って他者に貢献する存在のことだからだ。知識労働者が、自分だけで知識を独占しても、彼は何の役割も果たせない。知識を使い、他者の成果を助けてこそ、彼の成果が生まれる。固定的な組織でなく、時限性のグループであっても同じだ。物は独占し希少価値を高めることで「高値」で売りつけることが可能だが、同じことを情報で行う人間は知識労働者とは呼べない。単なる情報売買者である。そして、コピーが容易なデジタル世界において、そのような売買者は(よほど悪徳なことをしない限りは)薄利多売になるか、誰の成果にも貢献できない存在になるだろう。

一方で競争原理が働くと、知識の独占がはじまり、チーム内で知識を分け合おうなどという試みはことごとく頓挫していくだろう。個人の能力に対する「成果主義」と、チームの育成が非常に相性が悪いことを考えてみれば納得できるはずだ。ようするに、知識労働者を活かすには単純な競争原理ではうまくいかないわけである。

著者は人間を「学びの人」だとした上で、次のように述べる。

(前略)「学びの人」である人間が生きるということは、「仲間」と学び合いながら、自己変革を遂げていく過程である。知識社会では、そうした人間の営為が花開く。知識社会では人間が相互に自己変革を遂げ、社会を不断に変革して、人間の人間としての歴史を発展させていく。

『独学大全』を思い出すような未来図だ。しかし、今の日本はどうだろうか。

ところが、知識を「分かち合い」ながら、自己変革を遂げ、真理を追究していくことを否定した日本では、知識社会の推進力を喪失している。目標を疑うことなく、従順に従い、目標を目指して競争する人間を創り出すことしかできないからである。しかし、知識社会では目標を疑い、「既知」に異議を申し立て、「未知」を創り出す「学びの人」が求められているのである。

この憂いは、暦本純一氏の『妄想する頭 思考する手』で語られているものと重なるだろうし、また「既知」に異議申し立てをする姿勢は、『闇の自己啓発』とも通じるものがある。

少なくとも、このままではいけないという危機感は少なからずの人が抱いているのではないか。本書では第5章にて財政の役割が問い直され、また第6章では労働環境の構造について、最後の第7章では未来に向けた展望と戦略が論じられているが、個人的にはこの第4章で目を向けられている問題にフォーカスしたい。個人として「世界を愉しむ」ためのヒントがここにあるように思う。

もう一度、「学びの人」の部分を引用しよう。

「学びの人」である人間が生きるということは、「仲間」と学び合いながら、自己変革を遂げていく過程である。

まず注目したいのが「仲間」と学び合うことが筆頭に上げられている点である。ひとりで孤独に知識を蓄えることが、「学びの人」ではない。それは、前述した通り知識労働者が他者に貢献してはじめて意義を持つことと同義である。プロフェッショナルとして知識を扱う仕事に従事していなくても、知識社会への参画において他者をまったく無視することはできないし、また知識の交換が自身においても有用なことを踏まえれば、「仲間」と学び合うことが欠かせないのは首肯できる。

よって必要なのは、学び合える仲間と出会えることであろう。本当に素晴らしいことに現代はインターネットがあり、ブログやSNSがある。これらのツールは一歩間違えれば、自己に隠り、また対立をあおるだけの結果になってしまうが、しかし遠くにいる同好の士を見つけ出すのに最適なツールでもある。少なくとも、インターネットがなかった時代では得られなかったつながりが得られるようになっている。

しかし、そうしたつながりはあくまでフラットなものであるべきだろう。もう少し言えば、自分の知識を他者に「授ける」ような情報の流れが固定したものではなく、お互いに影響を与え合えるようなものでなければならない。でなければ、自己変革を遂げることはできず、ただカルト的に賛同者を増やすだけになってしまう。それはあまりにもつまらない結末だろう。

人と人が影響を与え合い、その結果自己変革が遂げられると、影響の輪にも変化が生じ、さらなる変化が広がっていく。それは線形的な変化ではなく、ネットワーク的に広がる変化であろう。トップダウンではなく、ボトムアップによる社会の変革とはそのように進むものではないか。

この話はいかにも教養主義や人格主義に聞こえるかもしれない。それで鼻白む人もきっといることだろう。しかし、変化によってもたらされるものはすべて副産物なのである。自己を変革してくこそそのものに、この道のりの意味はある。どこに向かうのかはわからない。ただ、今の自分だけが未来永劫の自分ではなく、自分を変えていけること、結果それが周りをも変えうること(その逆も然り)。そのような価値観・考え方を持てることこそが、人生を楽しんでいくために──少なくとも失望や絶望にとらわれないために──は必要なのではないか。

知識だけでなく問題も一人で抱え込まず、一つの全体として、そこに個がコミットしていくこと。分かち合い、というノードの接続を行うこと。それが知識社会・情報社会を楽しんでいくための一つのコツであろう。

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