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全体の重さ/基礎的な話をブログに書く/『Think clearly』

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求〜 2019/09/30 第468号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。

体調が行ったり来たりしているので、今週も縮小号です。

〜〜〜ストレスを取るためのストレス〜〜〜

ストレスや強い緊張に晒されていると、自律神経が不調になることがあります。で、運動や食事、そして適切な睡眠によって、その不調が改善されることがあります。

それはそれで結構なことなのですが、「頑張って」運動や食事、そして睡眠を整えようとすると、そのこと自体が、ストレスや緊張感を引き起こすことがあります。

だから、「そこそこ」の感覚が大切なのでしょう。

案外、それが難しかったりするのですが。

〜〜〜その日のやることと体調〜〜〜

ごくごく当たり前のことですが、その日にできそうなことは、その日の朝になってみないとわかりません。これは、ほとんど自然の摂理といっていいくらい当たり前の話でしょう。

しかし、社会生活は「繰り返し」を要求します。昨日と同じ今日、今日と同じ明日。同一の作業・成果が継続的に要求されます。

調子の波が小さいときは、多少の頑張りで、均一の成果を提供できるかもしれません。しかし、波が大きすぎるときは、頑張りではどうしようもありません。そういうときは、要求される成果の方を調整する必要があります。

もう一度言いますが、これはごく当たり前の話です。しかし、社会システム(特に労働環境)では、その当たり前が通じにくくなっているのではないかという気がします。

〜〜〜10年を振り返る〜〜〜

Twitterで、#10年を振り返るというハッシュタグを見かけました。自分の10年を振り返り、それぞれの年の代表的なイベントを列挙していくというハッシュタグです。

こういう振り返りは、「節目」を意識する上で大切なのですが、問題は10年を振り返るのは、記憶だけではなかなかたいへんだ、ということです。

一年前、二年前くらいならばなんとか思い出せるでしょうが、それ以上になると「いつ、何が起きた」のかをはっきり思い出すのは難しいでしょう。

こういうときに、記録は役立ちます。たとえば、日記。たとえば、手帳。たとえば、SNSやブログ。こうした記録があれば、10年を振り返るのはかなり容易くなります。

私は、「人生に関するすべての記録を残す」というライフログには懐疑的ですが、それでも「ある程度の記録」であれば、人生を豊かにしてくれるのではないかと、そんな風に感じます。

〜〜〜身の回りを片づける〜〜〜

メンタルがかなりダウン気味だったとき、妻が「こういうときこそ、『「うつ」とよりそう仕事術』じゃないの?」と言ってくれました。なるほど、たしかにその通りだと思い、パラパラと読み返すと、「半径50センチメートルの不安を整理する」という項目が目に入りました。

部屋を大きく片づけるのではなく、普段の自分の手の届くところを整理し、必要なものをいつでもビシッと取り出せるようにしておくことで、心に余裕を取り戻す、というライフハック(のようなもの)です。

どちらにせよ、大がかりな原稿を書けるような状態ではなかったので、本に書かれていたことを参考にして、机の周りと書棚を整理しました。若干、気分がすっきりしたのだから、なかなかすごいものです。

大きなことができないときは、こういう細かいことをやっておくのも良さそうですね。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりに考えてみてください。

Q. この10年は何がありましたか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2019/09/30 第468号の目次
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○「全体の重さ」 #断片

○「基礎的な話をブログに書く」 #断片

○『Think clearly』 #今週の一冊

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。 

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○「全体の重さ」 #断片

先週号のメルマガでは、#断片というハッシュタグを複数の記事につけました。これは、「ある全体を構成するかもしれないけれども、この時点ではまだその欠片でしかない」というニュアンスのタグです。

なぜそんなタグをつけたのかと言えば、先週号に書いたことを閃いたとき、これは何か大きなことの一部を成すものだ、という強い感覚があったからです。「全体像とその部品」に関する、何かしら大がかりな記事が書けそうな気がしていました。

しかし、体調不良のときは脳もうまく動いてくれません。とても、その「大がかりな記事」は書けそうになかったので、できるだけ細かい単位に分割し、いくつかの小さな記事として送り出したというわけです。

上の話から、少し考えを進めていくと、「全体」というものの重さ、あるいは「全体像を構築するときの脳の負荷」が少し見えてきます。

2000文字×3の断片と、6000字の全体。文字数としては変わらなくても、後者を構築するときには、膨大な脳のエネルギーを必要とします。それはおそらく3倍とか、そういうレベルではないでしょう。確定的な数値は出せませんが、感覚的には6倍や9倍くらいは負荷が大きいように思います。

以前、たくさんツイートをすることと、それと同じ文字数の一冊の本を書くことは、脳の使い方的に別物だ、という話もしましたが、単に違うだけでなく、後者の方が圧倒的に負荷が大きいのです。それは皿を持ち上げることと、ウェイトリフティングのバーベルを持ち上げることの違いに相当するかもしれません。1000回食器皿を持ち上げたところで、バーベルが上げられるようになるわけではない。そういう違いです。

話を少し巻き戻して、現在進めている『僕らの生存戦略』の執筆について思いを馳せてみます。

この本については、ずいぶん長らく「全体像」について考えていました。あれをこうしたい、これをああしたい、あれはこう書きたい、ここにあれを入れたい……そして、この本はこういう本に仕上げるのだ。そんなことをずっとずっと考えていたのです。

おそらく、脳の負荷という観点から考えれば、これは悪手だったのでしょう。たとえるなら、一台のパソコンの中で複数のEvernoteを起動させるようなものです。メモリが追いつくはずがありません。

たぶん、ある程度方向性が見えた段階で、私は(たとえ不格好であっても)本文を早々に執筆すべきだったのです。#断片として書き出すべきだったのです。

そうしてまず部品を集めておいて、そこから全体についてもう一度考える。そういう工程を踏むべきだったのでしょう。

実際、そんなことは100も承知なのです。その方が執筆がうまく進むことは十全に理解しています。しかし、それができませんでした。おそらく気負いが強すぎたのでしょう。

「月くら」計画の最後を飾る一冊であり、自分の中でも一つの集大成と言える本。だから、「良い本」にしなければならない。だから、どんどん考えよう、次々に考えよう、考えて考えて、考えまくろう、という暴走が発生していました。これではうまく進むはずがありません。

「とにかく書こう。話はそれからだ」

私がよく言う台詞です。その台詞は、勢いよく回転してきたブーメランのように私のもとに返ってきました。

再び『僕らの生存戦略』執筆に取りかかるなら、私はまず本文から取りかかることでしょう。たとえぐちゃぐであってもいいから、第一章を書き、第二章を書き、第三章を書き……。その先に生まれる──カオスを経た──完成形を覗いてみたいと思います。

あるいは、いったん『僕らの生存戦略』執筆計画は休止し、一、二ヶ月で完成するごく短い執筆プロジェクトに切り替えてみてもいいかもしれません。そういうリハビリが今必要な気がしています。

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