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本を読むだけの時間

こんにちは!ラシンインターン生の藤田です!

ここ最近は忙しく、noteの更新ができていませんでした。
近々学会に参加することになっているため、今後も忙しい日々は続きそうです、、

朝読書の時間

数か月ほど何も書いていなかったとはいえ、私生活について特筆すべきことがあったかと問われれば、微妙に長考してしまうような日々を送っていました。研究と授業、学会の準備等を中心に生活が回っている状態です。
たまにゼミの飲み会もありましたが、そこで何かあった訳でもないので「楽しかった」としか感想が出てこないものです。
とりとめのない、自分にとって当たり前の日常を言語化することの難しさをひしひしと感じます。

こうして、あれでもないこれでもないと悩んでいると、思考は過去へ過去へと遡っていくしかありません。今後に関する話題を持ち合わせていれば更に選択肢は広がったのにと、ないものねだりをしても仕方がないので思い出せる限りの記憶を探りました。

高校、中学校、小学校。

確かに過去にはたくさんの出来事があり、話題に事欠きません。
そこで私は小学校にあった習慣のひとつ、「朝読書の時間」を思い出しました。その名の通り、朝にみんなで15分ほど本を読む時間です。朝の会の前に行われていたと思います。各自が黙々と本を読むだけの時間。当時の私はその時間が好きでした。

「本を読むだけの時間」という制約が良かったのだと思います。
友達や周囲の雑談に気を取られることがなく、目の前の本だけに集中できる環境。スマホやSNSの存在を知らなかった頃ですから、今よりも一つのことに夢中になりやすかったです。
私はこの時間がきっかけで読書する機会が多くなりました。中学生になっても、高校生になっても、何かしらの小説を読んでいた気がします。
「鈴の神さま(知野みさき)」「青い鳥(重松清)」「蹴りたい背中(綿矢りさ)」
内容は忘れてしまったものもありますが、どれも表紙だけは覚えています。

しかしながら、今は本よりもスマホやPCと向き合う時間が多くなりました。電子書籍で読むのは専らマンガで、本と言っても学術書を薦められることが大半です。そういう環境に身を置いているため、自然とそういう流れになりました。それじゃあ家で小説を読めば良いじゃないかと思っても、そうもいきません。読書の優先順位が下がってしまったのだと思います。
また、小説というフィクションよりも、映画やドラマというフィクションを好むようになりました。脳や心理的な負担が少ないからです。想像しなくても映像が映し出され、私はそれを受け取るだけで大きな満足感を得ることができる。

もちろん、小説で得られる満足感と、映像で得られる満足感は違います。
ただ、私にとってはどれだけコスパよく満足感を得られるかという違いがあります。時間の価値が徐々に高くなっているのかもしれません。コンテンツで溢れたこの時代において、何を選び、何に時間を使うのか、という選択肢の重みは変わっていると思います。

このことに対して、なんとなく薄っすらと罪悪感のような後ろめたさを感じるときがあります。小学生の自分が今の私をじっと見つめているような、そういう居心地の悪さです。
もっと本を読もう。そう思うたびに本棚に入りきらない小説ばかりが増えていきます。
昨日の夜も「本を読まないと…」という気持ちに駆られて積み本の中から数冊取り出しましたが、結局読まないまま寝てしまいました。

今の日常を変えることはなかなか難しいですが、少しずつ朝読書の時間を作っていけたらいいなぁ、と思っています。


オチらしいオチはありませんが、本日はこの辺で!
したっけね~👋

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