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あの素晴らしいモノをもう一度

育児って寄せては引き、引いては押し寄せる波みたいだな、と思うことがある。
気になることだとか、困ったこと、大変なこと、もちろん喜ばしいことや、微笑ましいことも。
それらが次々に目に見える事象として押し寄せ、そして引いていく。

波の下には山があったり穴があったり、絵だとか文字だとかが描かれていたりするのだけど、次の波が来てしまえば砂はあっという間に波にさらわれて、するりと消えてゆく。
本当は砂の下にまだ、そういうものの痕跡は残っているはずなのに、表面的には見えなくなってしまう。
そんなことの繰り返しだ。

ちゃんこ(次男)の月齢5ヶ月も終わりに差し掛かったGW明け。

スタイを通り越して滴り落ちるヨダレ、わたしがお菓子を食べるところをまんまるの目に映してモグモグと口を動かす姿、そしてご飯どきになると必ず泣き、母の腿にちょんと腰掛けて皆の食べる姿を嬉しそうに眺め手を伸ばす様子。
つまりはちゃんこの「ボク、いつでもたべるじゅんびできてましゅ!!!」という圧が右肩あがりで、無視できなくなってきたのが、その頃だった。

毎日、他の家族が食べるご飯に加えて、油なし味付けなし小さくつぶしてなめらかにした食物を準備する。
それはまあ、瓶詰めやフリーズドライのよくできた市販の品があるから、まだ気は楽。
でも食べさせるうえで、机も口も服もベットベト必至、終了後のシャワー必須、掃除をしそびれればあらゆるところがカピカピに、そういうことをこれまでの経験で知っているだけに、当然腰は重くなる。

ただ本人は至ってやる気だし、いつまでもこのままという訳にもいかない。
そして彼の栄養の主体が母乳である限り、わたしのビールはお預け状態…。
という思考まで辿りついたところで、離乳食をはじめる覚悟を決めた。

ずいぶん逡巡していたわりには、スタートはさっくりだった。
朝起きて、たぶん心身の調子がわりとよかったんだろう。
「今日はパン食べよう」くらいの軽いノリで「お粥炊こう」と思い立ち、朝ごはんを食べる横でコトコトと鍋を揺らした。

事件が起こったのは、それから2日後のことだ。

もう後戻りできないのだと知ってしまった。
いや正確に言うと、思い出したのだ。
砂の下に埋もれていた造形と共に。

みなさんご存知だろうか。
人の身体というのは、口から摂るもので出来ているということを。
口に入れたものは、お尻から出てくるということを。
そして赤子の場合は腸が短いせいか、その臭いは口に入れたものからダイレクトに影響を受けるということを。

その日もちゃんこがうんちをしているのに気づいたわたしは、いつものように替えのおむつとおしりふきを準備し、そそくさとテープを外した。


くっ…くさ………


心のなかで、何かがガランと崩れるような音がした。
待って待って、うんちなんてなんでも臭いでしょうというツッコミが聞こえてきそうだ。
まあ、それは一理ある。

でもあきらかに、それはもう明確に、その臭いの種類がこれまでと違うのだ。
乳しか通過していなかった胃腸に、それ以外の食物が流れ込む。
それは真っ白な絵の具の中に、他の色がじわじわと滲んで広がっていく様子を彷彿とさせた。

乳という栄養だけが通過し、その体を成していたこれまでのうんち。
それは平たく言うと尊てすとなうんち、とうとい、とうたー、とうてすと、つまり尊いの最上級なうんちなのである。

それがもう、二度と、戻ってこない、あの臭いを、嗅げない、と思うと、さみしくてさみしくて、さみしさが降り積もり、砂の山がどんどん大きくて強固なものになっていく。

なんで上の子たちのときにもあんなにさみしいと思ったのに、忘れてしまっていたんだろう。
うんちの匂い、もっともっと嗅いでおけばよかった。
胸の奥深くに染み込むくらいに、吸い込んでくべきだった。
うんちの臭い保存委員会だって、立ち上げたらよかったんじゃないか。
そんな後悔が、頭の中をぐるぐるする。

毎日ちゃんこのお尻を拭きながら、胸がキュンと痛む。
3人の子を育てる中で次々に波は訪れるというのに、2ヶ月近く経った今でも、その造形はまだ形を失わずにこの胸に居座り続けている。

現在、月齢7ヶ月になったちゃんこの口の中には、下の歯茎から2つ、白いものがちろりと見える。
きゃあ!という驚きと喜びに混じって、ああ、という悲しみと落胆も顔を出す。
「お口の中みせて」と下唇をきゅうと押さえる。
この世に出てきたての、白くてぴかぴかした、かわいいかわいい小さな前歯。

歯茎で指をハムハムされるあの感触は、もう、味わえない。

そしてまたひとつ、砂に埋まっていたものがあったことを思い出して、ホロリとしてしまうのだから、全くおかあちゃんってやつはな、などとため息をついている。

ここまで読んでくれたあなたは神なのかな。