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「人生の半分損してる」について思うこと

ウニを美味しいと思えるようになったのは、たしか15年くらい前だったかと思う。

それまでは味にも見た目にも、全く魅力を感じなかった。

ウニに対して「美味しくない、気持ち悪い」と言う人間ほど、ウニにとって有り難い存在はないだろう。
ウニにとっては少々言葉の暴力が過ぎるが、心が傷つくことはあってもその人間の手によって一生を終える心配はない。

「美味しそう!」と自分のことをキラキラとした好意的な目で見る人間ほど、彼らにとっては厄介な存在だ。
そういう敵から派手なオレンジ色の身を守るために、あんな攻撃的なフォルムと見つかりにくいボディカラーを獲得したのだろう。
子孫を残すための進化とは往々にしそういうものである。

ただし「美味しそう!」などと言われるのは大抵息の根を止められた後か、存命でも寿司屋のに入れられ自由を奪われた後なので、最強フォルムをってしても最終的に勝つことはできないのだが。

と、試しにウニの立場に寄り添って書いてみたものの、好き嫌い問わずウニを食用の魚介類としてのみ認識している僕にとっては、ウニの気持ちなど知ったことではない。
人間の食欲と経済のために、できるだけ立派に育っていって欲しい。


ウニ嫌いだった約15年前、2006年頃の僕にとっての敵は、実際のところウニではなかった。
こちらから彼らに近づかなければ、あのトゲ状の凶器で心臓を貫かれることも、無理やり口に押し入ってくることもない。

当時の僕にとって脅威的だったのは「えー、ウニが嫌いなんて人生半分損してるよー」と間の抜けた顔で責め立てようとする、何も考えていなさそうな人種である。

彼らはウニ嫌いの人間によって先祖を辱められでもしたのだろうか。
鬼の首を取ったように言い放ってくるのだ。


「人生半分損してる」

2021年の年末時点で、この表現は一時期よりは減ったように思える。

多くの人々にとって「いやいや、お前の人生半分〇〇かよ」と、あまり語彙力のない人種でも簡単にツッコミを入れられる、恰好のネタフリだったからだろう。

このやりとりは必要以上に消費され、飽きられ、やがて影を潜めてきたのだ。


しかし先日、取引先の人物と話した時に酒の肴の話題になり、久々にこのフレーズと再会することとなった。
人生半分説が衰退した令和においても、それとは気付かずに使い続けるのがおじさんの証なのだ。

このフレーズが僕の前に再登場したのは、主に東北地方で水揚げされる海産物「ホヤ」についての話題になった時だ。
ウニにとっての絶対的支配者となった現在の僕にとって、食べられないことはないが好きかと言われるとそうでもない、それがホヤなのだ。

「ホヤを好きではないことによって、あなたは人生の半分において損をしている」

といった内容を僕に対し言い放つ彼に問いたいのは、

「では、あなたの人生の半分はホヤで構成されいているのか」

というものだ。

言い回しこそ違えど、僕の質問内容は前述の語彙力ゼロの間抜け人間と同レベルなのだが。
実際にはそんなことは決して問わないのだが、問いたい気持ちは山ほどある。

過酷ともいえる生存競争を勝ち抜きこの世に生まれ、親からも愛情をたっぷり注がれ、竹馬の友と遊びや勉強に打ち込む日々。学校を卒業し希望を持って就職したものの理想と現実はかけ離れ、そんな社会生活の中でも今は自分の家族を持ち、贅沢とは言えずとも人並みの暮らしをする中で「これはこれで幸せなのかもしれないな」という毎日を必死に頑張って生きている、そんなあなたの人生の50パーセントは「ホヤ」で出来ているのか。

彼の人生同様、あのバファリンも半分は「優しさ」で出来ているという。
だが、ホヤよりは多少なりとも「優しさ」の方が響きが良い。

半分がホヤで出来ているなど、ただの哀れな人生にしか思えなくなってくるのだ。

少なくとも僕の人生の半分はホヤ、ウニ、イワシやエビなどの魚介類で出来ているわけではない。
無論、ニンジンやジャガイモ、鶏肉、ましてやドングリでもない。

たしかに得をすることばかりではないが、身体の半分をホヤに支配されたホヤ人間よりは、僕の人生は遥かに充実していると思っている。

ホヤ人間など、仮面ライダーに勝てもしない喧嘩を売る怪人と、もはや大差はない。

ホヤ人間はどう頑張っても主人公にはなれないのだ。


と、そんなことを14秒くらいの間に考えながら、
「そうなんですよねー、美味しいらしいんで食べられるようにはなりたいんですけどねー。損してますよねー。このご時世が落ち着いたらホヤが美味しいお店連れてってくださいよー。」
と間抜けな顔と口調で返すのが精一杯だった。


営業職とは、そういう悲しい職種である。

「人生は半分ホヤで出来ている説」を高らかに唱える過激派ホヤ原理主義者のほうが、人生を笑って楽しく過ごせる世の中なのかもしれない。

そう解釈すると、僕はホヤ嫌いによって人生の半分を損している可能性も否定できなくなってくる。
もしかすると「人生半分損してる」理論は統計学的な裏付けのもと、人間の心理の的を射た知的表現なのだろうか。


いま確信を持って言えることは、ただ一つ。

ホヤが嫌いなせいでこんな下らない文章を書いている僕は、今日という一日の半分、確実に損をしているということだ。
いや、強大な力をもったホヤの支配下に置かれ、無理やり駄文を書かされていると言っても過言ではない。

ホヤに強要された、この塵のような作業が毎日、毎週、毎月、毎年と積み重なれば、一生の半分と言わずともあるいは…ということである。

こんな人生、損以外の何物でもないのだ。

人生半分損してる理論、意外とあなどれない。

本当に哀れだったのは、やはりホヤを好きではない僕の人生なのだ。
いや、むしろ一つの投稿でこんなにも「ホヤ」を連呼している時点で、ホヤ人間とは僕のことなのかもしれない。

味はさておき、もはや僕はホヤのことを好きなのかもしれない。


僕も少しくらいは損をしない人生を送りたいので、ホヤ嫌いを克服できる調理法をご存知の方は、是非ご連絡頂きたい。

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