【ショート小説】出会い系アプリを徘徊する既婚者たち:48歳男システム関連企業のサラリーマン(後編)
前編・中編からつづく
最初に会ったのが9月初旬。
その後は、私は男から週末ごとに送られてくる「畑の収穫」の写真を受け取るようになった。その写真からわずかな季節感をすくいとっているうちに、あたりはすっかり秋らしくなった。
私は男が指定する渋谷のカフェへ向かった。
車の部品メーカーが入るオフィスビルの一階で、半分はショールームになっていて、だだっ広いというイメージだ。駅から繁華街とは逆方向に10分ぐらい歩く立地のせいか、お客さんは少ない。
ちょうど待ち合わせの17:30だったけれど、善良な男の姿はなかった。
私はカウンターでコーヒーを注文すると、ソファ席に座りアプリを開いた。
未読が一件。
「すみません。打ち合わせが長引いて、15分ほど遅れてしまいます」
メッセージを閉じて、そのままネットニュースを開いて、時間を潰すことにした。
「お待たせして、すみません」
不意に声をかけられ、顔を上げると、男が立っていた。
チェック柄のポロシャツが、肩にかけたショルダーバッグに引っ張られて、ズレた胸もとがだらしなく開いている。
「ああ、この顔だった」
男の横顔のしめっとした肌質を確認する。
「コーヒー頼んできますね」
男がそう言った瞬間、私はとっさに手元のカップに目を移す。
カップはほとんど空になっていて、底の方に冷めたコーヒーが
少しだけ残った状態。
「もう一杯飲みたいな」と思ったけれど、
男は鞄を置いて、カウンターに向かってしまった。
「どうですか、最近?」
コーヒーを持って戻ってきた男の唐突な質問に、一瞬、答えに詰まる。
私の生活は充実していると思う。
仕事も順調だし、プライベートも楽しい。
それを、この男にどう伝えたらいいのだろう。
「順調に。うまくいってますよ」
無難に答える。
「それは、よかったです。僕の方は相変わらず週末は家庭菜園です。
なかなか楽しいですよ」
「奥さんと一緒にされているんですよね。
仲良しで、いいじゃないですか」
「仲良しと言えるかどうかはわかりませんが、
仲が悪いわけではないですね。
子育てはもうほとんど終わってしまいましたが、
家庭菜園は、少し子育てみたいなところがありますね。
楽しいですよ」
話を聞きながら、出会い系アプリで出会った女性たちは
どういう気持ちでこの話を聞いているのだろう、と思う。
お互いの背後に、そういう穏やかで幸せな家庭があれば、
むしろ、それはそれでいいのか。
その後、男は突然、世界情勢の話をし始めた。
私が、貿易の仕事をしているから「影響があるのでは」と
思ってくれたようだ。
正直、私のような派遣の事務職には影響はない。
その話題は盛り上がることもなく、終わってしまった。
「ここのカフェ、19時までなんですよね」
男に言われて、時計を見ると、18時半を過ぎていた。
今日も、男は家に帰ってから夕食を食べるのだろう。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
もう、会うことはないかな、と思う。
この男には、最初に会った時に、「深い関係は求めていない」と
伝えている。そして、「それでもお茶とかできれば嬉しい」と
言われたわけだけれど、正直、意味がないなと思う。
盛り上がらない会話を、一つひとつ繋いでいくことが、その先の何にもつながらないことがわかっているから。
私たちは、広いショールームを通って、出口に向かった。
出口を出た瞬間に、男が立ち止まった。
「よかったら、遊んで行きませんか?」
「え?遊ぶって?」
私は咄嗟にそう答え、二人の間の時間が止まった気がした。
カラフルなネオンが、うっすらと暮れかけた渋谷の街を照らしていた。
「遊ぶ」という言葉が、この男にすごく不釣り合いな気がした。
「いや、ちょっとブラブラしませんか」
そういうことなんだ。
「そういう関係にはなりたくないし、なることもない」
伝えたつもりのこの言葉は、伝わるようで伝わらない。
当たり前だ。出会い系アプリで出会った二人だ。
今どき、中学生でも「お茶だけ」で済まないことはわかっているだろう。
「すみません。今日は帰らないと」
明日も、その次もないことを、こうして告げる。
「わかりました。では、気をつけて」
男というのは、どんなに会話が盛り上がっていなくても、
その先を期待するものらしい。
男の視線を感じながら、私は駅に向かう。
振り返ると、男は軽く会釈をして、反対の方向に歩いて消えていった。
そのシワの入ったシャツの後ろ姿は、どう見ても善良だった。
出会い系アプリに登録している人は、
「奥さんとは険悪な雰囲気で」
という人が多いと思っていたけれど、全然そうではない。
奥さんのことは嫌いではない。
家庭もちゃんと機能している。
一番の理解者は奥さん。
でも、外で出会いが欲しい。
できれば誰かと抱き合える関係になりたい。
この、とても善良に見える男も同じだった。
人は、平穏な日々とか、幸せな家庭とか、
それだけでは満たされない。
良い人だって、優しい人だって、それ以上を求めるのは
自然なことなのかもしれない。
そこに悪と善の線を引いたのは、自然に反することかもね。
男からは、その後も何度かメールが届いた。
相変わらず、家庭菜園で採れた野菜の写真だった。
私は、男の質感が生理的に無理だったし、精神的にもなんら魅力を感じることができなかった。
そして、このメッセージ。
この男とベッドに入っても、絶対に満足できなかったと確信する。
私の反応も気にせず、一方的に自分がしたいことをするんだよね。
返事を出さずにいると、いつの間にかメールは途絶えた。
ゲーム・オーバー。
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