他人の不幸すら「善」となりうる スピノザ「エチカ」第三部
善悪というテーマを
『エチカ』第三部の中から考える。
昨日紹介したニーチェと同様
行為をなす「自己」が基準になっている。
…
定理39 備考より
私はここで、善をあらゆる種類の喜び
ならびに喜びをもたらすすべてもの、
また特に願望
――それがどんな種類のものであっても――
を満足させるもの、と解する。
善と判断するがゆえに欲するのでなく、
かえって反対に我々の欲するものを
善と呼ぶのだから
善だから、欲する ではなく
欲するから、善
先にあるのは、
自己の欲求の方、ということだ。
善悪は、直接的には他者と関係ない
ということだ。
だから、善は各人によって
当然異なってくる
貪欲者は金の集積を最も善いものと判断し、
その欠乏を最も悪いものと判断する。
しかし名誉欲者は
何にもまして名誉を欲し、
反対に何にもまして恥辱を恐れる。
最後に、ねたみ屋にとっては
他人の不幸ほど愉快なものはなく、
また他人の幸福ほど不快なものはない。
金を求める が善
名誉を求める が善
他人の不幸 が善
こんな「善」もあるということだ。
自らの内から出てくる衝動は
人それぞれに違う
違うのだから、
どんな「善」があってもおかしくはない。
定理9 備考には、こうある
衝動とは人間の本質そのもの、
――自己の維持に役立つすべてのことが
それから必然的に出て来て
結局人間にそれをおこなわせるようにさせる
人間の本質そのもの
本質そのものからでてくるものは
必ず善なのである。
自己の有に固執する
=自分が消えないよう努力してしまうのが
人間である。
「衝動」とは、
この「自己の有に固執する」努力が
精神・身体の両方に
関係するときの呼称である。
(定理9 備考)
つまり、
心と身体がやってしまうこと
=「衝動」が
その人の「本質」である
ということだ。
そして、本質にそったものを
その人は「善」と判断するのだ。
自分の「善」が
世の中の大多数とズレていたとしても
それは何の不思議もないことである
…
ニーチェの善悪の話
エチカ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?