「良い」のホントの意味、知ってますか? ニーチェ『道徳の系譜学』
「良い」こととは何か?
「良い」の一つの基準として
「自己中心的でない」
すなわち
「利己的でない」が挙げられるだろう
確かに、なんとなく「良い」気がする。
自己犠牲的に、他の人を助けるような
いわゆる「良い」話の例は
とても沢山ある。
感覚としては、嘘ではなさそうに思える
でも、これをニーチェは
誤りであると断言する。
なぜか
それは、この「良い」の基準が
「利己的でない行動」を
「した」人ではなく
「してもらった人」になっているからだ。
本来「良い」の判断は
行為を「した」側の人が行うものだ。
すなわち、より力の強い
高貴な、高位な人が行うものだ。
それは「良い」という言葉の語源から
わかることである。
第一論文「善と悪」「良いと悪い」
四 良いと悪いという語の語源より
身分の高さを示す「高貴な」とか
「気高い」という語が根本的な概念であり、
そこから
「精神的に高貴」で「気高い」という意味で、
「精神的に高潔な」とか
「精神的に特権を持つ」という意味で、
「良い」という語が必然的に
生まれてきたのである。
元々は、身分の高さ、精神な高貴さから
「良い」は生まれたということ
「した人」の
「高さ」を基準にした概念だった
ということである。
そこに、
その恩恵を受ける側の基準
=「してもらった人」の基準は
なかったのである。
ではなぜ、
行為を行う本人ではなく
行為の恩恵を受ける側が
「良い」を判断するように
なってしまったのか?
二〈良い〉と〈悪い〉という概念の起源より
かの[イギリスの]道徳の系譜学者の
迷信によると、「良い」という語は
利己的でない行動と結びついているという
(中略)
家畜の群れの本能のためなのだ。
そしてその後長い年月を経て、
この群れの本能が主人となり、
道徳的な価値の評価がこの対立のもとで
(「利己的」と「利己的でない」)
行われるようになり、
ここから離れられなくなった
家畜の群れの本能のせいである
いつの間にか、
力をもたないもの
=低いところに居るものの集団が
「主人」になってしまったからである。
この「逆転」を引き起こしたのが
ユダヤ人を起源にもつキリスト教だ
と、ニーチェは言うのである。
七 ユダヤ人による価値転換より
ユダヤ人にとっては
「惨めな者たちだけが善き者である」
(中略)
汝ら高貴な者、力をふるう者よ、
汝らは永遠に悪しきものであり、
(以下略)
ユダヤ民族とともに
道徳における奴隷の叛乱が始まり
この叛乱が勝利をおさめたから
「良い」と「悪い」の
「逆転」が発生してしまったのだ。
…
道徳の系譜学
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?