「普通はこうだよね」じゃなくて「この人はこうだよね」って個人を理解しようとする

昨日知ったこと、テノールは女遊びが激しくて、バスとバリトンは誠実。ソプラノは自由奔放。こんな音大あるあるがあるとはね。男を見る目が無いと自覚している人は、なるべくバスかバリトンを選んだ方が良いらしい。だってよ!


シャワーを浴びるのが面倒でダラダラしている。その時間を使ってnoteを書くことにした。今日はいろんなことのやる気が出ずにダラダラしちゃう日だな。料理をするのにも時間かかっちゃった。やったからタスクはこなしているのだが。まあ昨日外出したし、単純に疲れてるんだろうよ。朝起きて、なんでこんなに眠いんだと思ったら、昨日遊びに行ってたんだった!って思い出したくらいの疲労度。

頭痛予報というのを見かけた。おそらく低気圧で体調が悪くなる人用のコンテンツ。自己管理がなってないとか言われて全員が同じラインに立たなくてはいけない社会よりも、自己管理ではどうにもならないものが存在すると知られている社会であれと思う。全員が同じではないという認識と自分以外の他人の気持ちを考えようとする態度が当たり前になってほしい。


今日はダメージジーンズの修復に着手。放置されているのを横目に別のことを進めると、なんとなく焦燥感が生まれてしまうから。途中までやっていることを放置して別のものを進めると、スタンバイしているタスクが積み重なっている感じがして。なので、お前のことも忘れてないよとダメージジーンズを直す機会を少しずつ挟む。

今日は一番大きな穴を塞いだ。大きすぎてダーニングは無理だなっていう箇所。当て布をしてまつり縫い、強度を上げるために補修部分を刺し子する。結構手間がかかる修復だ。今は刺し子の途中。このためだけに刺し子糸を買うと絶対に余らせるため、ミシン糸を六本束ねて縫っている。この修復、全体的にミシン糸で頑張ってる。

んあ、そういや裾上げもしないといけないんだった。ガッツリ切ってバリバリ縫う。切った布を別の穴の当て布にする。修復のためにやるべき作業がたくさんあって、世の中のダメージジーンズを親切心で直しちゃうおばあちゃんたちの、優しさの深さを知る。こんな面倒なことを、孫のためにやってくれるなんて。ありがた迷惑で片付けるには大きすぎる愛情だ。


『本を読んだことがない32歳が初めて本を読む』を読んでいる。一章ずつ。web記事でも出ていた『走れメロス』を再び読む。みくのしんさんの読書が解像度高すぎて、自分も一緒に物語を追いかけていると、入り込んだ世界の色味が倍になった感じがする。

メロスがセリヌンティウスを呼び出して、人質になってほしい事情を話すと、セリヌンティウスが無言で頷きメロスをひしと抱き締めるシーンの「友と友の間は、それでよかった。」という一文が、今更ぐっときた。これは「普通はこうだよね」じゃなくて「この人はこうだよね」ってセリヌンティウスがメロス自身を理解しているってことであり、つまり個人を理解しようとする姿勢を持ってる人なんだよな。

この人、私じゃなくて私に世間を当てはめて見てるよね?ってことが、まあまあ起こるから、この関係性はかなり理想だ。それが、自分で付き合うかどうか選べる「友達」との関係性なのも良い。世間を当てはめるというのは、例えば女というカテゴリを通して、体力が無いとかロマンチックなものが好きだとか決めつけるみたいなやつ。カテゴリ通りの偏見に当てはまるものもあるかもしれないけど、そんな普遍的な人間ってそうそう居ない。だから、その世間レンズを通して話されると、いや誰の話ししてる?ってなる。

セリヌンティウスは事情を聞いて、多分やめとけよとか自分を選ぶなよとか帰ってきてもお前が処刑されるんだぞとか、そういう色んな言いたいことが出てきてるはずなのに、でもメロスはそういうことをしたいんだよなって言葉を飲み込んで受け入れる。これはすごいっす。愛。友情ってあらゆる愛の形の一つなんだな。私、理解しようとすることが愛って考えてる節があるかもしれん。いや、愛の中に理解しようとすることが含まれるのであって、二つの関係はイコールではない。


めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。