【古文のはなし】土佐日記を読む。ラスト。とにかくこんなもの早く破ってしまおう。

前回のあらすじ(二月五日)
船の舵取が使えない。「今日は天気が悪くなるから」と言って船を出さなかったのに、普通に天気良くて一日無駄にしたし、海の明神を鎮めるためとか言って貴重な鏡を海に投げやがった。こいつ、マジでなに?とはいえ、京都まであと少し。あとしばらくだあとしばらくの辛抱だよ〜これは俺の余裕の証。(本歌:デッド・エンド/テニスの王子様ミュージカル)


原文↓

前回↓



六日、澪標のもとより出でゝ難波につきて河尻に入る。みな人々女おきなひたひに手をあてゝ喜ぶこと二つなし。かの船醉の淡路の島のおほい子、都近くなりぬといふを喜びて、船底より頭をもたげてかくぞいへる、「いつしかといぶせかりつる難波がた蘆こぎそけて御船きにけり」。いとおもひの外なる人のいへれば、人々あやしがる。これが中に心ちなやむ船君いたくめでゝ「船醉したうべりし御顏には似ずもあるかな」といひける。

六日、澪標から出て難波に着き、河尻に入る。海の旅が終わり、老若男女みんな額に手を当てて喜ぶことこの上ない。例の船酔いする淡路の老女が、都が近づいたのを喜んで、船底から頭を上げてこのように言う「いつになったら着くんだとモヤモヤしていた難波潟へ、葦を漕いで押し退けて御船がやってきたよ」。想定外の人が言ったので人々は不思議がる。気分を悪くしていた船君がこの歌を大変ほめて「船酔いしたお顔には似合わず良い歌だ」と言った。

>「額に手を当てて喜ぶ」ってお祈りの姿勢のことなのかな。さすがに熱を測るポーズではないよね。喜ぶといえば万歳みたいなところがある令和人だから、どういうこと?ってなった。


七日、けふは川尻に船入り立ちて漕ぎのぼるに、川の水ひて惱みわづらふ。船ののぼることいと難し。かゝる間に船君の病者もとよりこちごちしき人にて、かうやうの事更に知らざりけり。かゝれども淡路のたうめの歌にめでゝ、みやこぼこりにもやあらむ、からくしてあやしき歌ひねり出せり。そのうたは、「きときては川のほりえの水をあさみ船も我が身もなづむけふかな」。これは病をすればよめるなるべし。

七日、今日は河尻から船を入れて川を漕ぎ上る日だったのだが、川の水が枯れていて苦しむ。船で上るのが大変難しい。そんな時に船君である病人は元来無風流な人で、和歌のような風流が分からなかった。けれども淡路の老女の歌に影響を受けて、京都の近くに来たからだろうか、なんとか不慣れな歌を捻り出した。その歌は「来るには来たが川の堀江の水が浅くて船も私も行き悩む今日かな」。これは病気をしたので詠めた和歌である。


ひとうたにことの飽かねば今ひとつ、「とくと思ふ船なやますは我がために水のこゝろのあさきなりけり」。この歌は、みやこ近くなりぬるよろこびに堪へずして言へるなるべし。淡路の御の歌におとれり。ねたき、いはざらましものをとくやしがるうちによるになりて寢にけり。

一歌では飽き足らず、「早く進もうと思う船を悩ませているのは水が枯れているからであり、私への水からの思いやりが浅いからでもある」。この歌は、京都が近くなった嬉しさが堪えきれずに言ったものだろう。淡路の老女の和歌の方が良い。妬ましい、言わなければよかったと悔しがるうちに夜になって寝た。

>自分の和歌を日記に書いて、あの人の方が上手だったと悔しがるの、それなりに自作の和歌に自信がないと出来ないと思うんだが。


八日、なほ川のほとりになづみて、鳥養の御牧といふほとりにとまる。こよひ船君例の病起りていたく惱む。ある人あさらかなる物もてきたり。よねしてかへりごとす。男ども密にいふなり「いひぼしてもてる」とや。かうやうの事所々にあり。今日節みすればいをもちゐず。

八日、今日もまた川のほとりでくすぶって、鳥養の御牧というほとりに泊まる。今晩は船君に例の病が起こって大変苦しがる。ある人が新鮮な魚を持ってきた。米を返礼に持たせた。男たちがコソコソと「米でモツを釣る」とかなんとか。こんなことはこれまでにもあった。今日は節忌なので魚は不要なのだ。

>病気で苦しんでいるのに日記を書いていてすごい。別日に書いたのか、それとも苦しみながら書いたのか。暇だろうし当日かなあ。病気の時に必要なのって娯楽だよね。


九日、心もとなさに明けぬから船をひきつゝのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。この間に和田の泊りのあかれのところといふ所あり。よねいをなどこへばおこなひつ。かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つゝ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。

九日、じれったく夜が開ける前から船を引いて川を上ったけれども、やっぱり川の水が無いのでノロノロとしか進まない。和田の泊の分岐のところがあった。米などを乞うので施す。そうして船をひき上ると渚の院というところを見つつ行く。その院を昔のことを思い出しつつ見ると趣深いところだ。後ろの丘には松の木があり、中の庭には梅の花が咲いている。

>居ざる=座ったまま膝で進む。幼児が尻で進むのにもいう。ほ〜〜これは使える日本語。


こゝに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて櫻のさかざらは春のこゝろはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。今興ある人所に似たる歌よめり、「千代へたる松にはあれどいにしへの聲の寒さはかはらざりけり」。又ある人のよめる、「君戀ひて世をふる宿のうめの花むかしの香かにぞなほにほひける」といひつゝぞ都のちかづくを悦びつゝのぼる。

人々が言うことには「この渚の院は名高いところだった。故惟喬親王の御子のお供に、故在原業平中将が『世の中に絶えて桜の坂ざらば春の心はのどけからまし』という和歌を詠んだところだ。今その場の戯れでこの場所にちなんだ和歌を詠んだ『千代を経た松ではあるが、昔から松風の寒々しい音は変わらないのだ』」。またある人が詠んだ歌「君主を恋しく思って何年も生きてきた宿に咲く梅の花は昔のように香りが匂っている」と言いつつ、都が近づくのを喜んで上る。


かくのぼる人々のなかに京よりくだりし時に、皆人子どもなかりき。いたれりし國にてぞ子生める者どもありあへる。みな人船のとまる所に子を抱きつゝおりのりす。これを見て昔の子の母かなしきに堪へずして、「なかりしもありつゝ歸る人の子をありしもなくてくるが悲しさ」といひてぞ泣きける。父もこれを聞きていかゞあらむ。かうやうの事ども歌もこのむとてあるにもあらざるべし。もろこしもこゝも思ふことに堪へぬ時のわざとか。こよひ宇土野といふ所にとまる。

京から土佐へ下った時には、同行者の中に子供はいなかった。赴任先で子供を産んだ者がいたのだ。その人たちはみな、船が泊まったところで子供を抱いて昇降する。これを見て、土佐にて子供を亡くした母が悲しみに耐えられず「出発時にはいなかったのに子供を産んで京に帰っている人もいるのに、子供がいたのに失って帰るのが悲しい」と言って涙を落とした。その父もこれを聞いてどんな心境だったろうか。このような内容の歌も好んで作るというわけではないだろう。唐土もここも思うことに耐えられない時に作るものだ。今宵は宇土野というところに泊まる。

>我が子を亡くした母親はずっと新鮮に悲しい。


十日、さはることありてのぼらず。
十一日、雨いさゝか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。こゝに相應寺のほとりに、しばし船をとゞめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。ある人この柳のかげの川の底にうつれるを見てよめる歌、「さゞれ浪よするあやをば青柳のかげのいとして織るかとぞ見る」

十日、障りがあるので上らず。
十一日、雨が少し降って止んだ。そして上っていくと東の方に山の横が臥し広がっているのを見て、聞くと「八幡の宮」とのこと。これを聞いて、喜んでみんな拝み奉る。山崎の橋をお目にかかる。この上なく嬉しい。ここ相應寺のほとりにしばらく船を留めて色々と決めることがある。この寺のほとりに柳がたくさんあった。ある人がこの柳の影が川の底に映っているのを見て詠んだ歌「さざ波が寄せて作る綾の模様を青柳の影の糸で織っているように見える」。

>川の底に柳の影が映る?水が透き通っている?濁った水に景色が映るのばっかり見ているから、水面、つまり水の表面に影が映る感覚しかない。そうか底。そこなんだ。例えば風呂に透明な水を張って近くに自分が立ったら、確かに影は底まで届きそう。綺麗な水なら底まで光が届くから、底まで影も届く。
あるいは水深が浅ければ多少濁っていても、と考えることも可能だけれど柳がたくさん生えているところって水深深そうだよね。


十二日、山崎にとまれり。
十三日、なほ山崎に。
十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。
十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。この人の家よろこべるやうにてあるじしたり。このあるじの又あるじのよきを見るに、うたておもほゆ。いろいろにかへりごとす。家の人のいで入りにくげならずゐやゝかなり。

十二日、山崎に泊まった。
十三日、なお山崎に。
十四日、雨降る。今日車を京へ取りに使いを出す。
十五日、今日車を率いてきた。船が不快なので、船から人の家に移る。この人の家では嬉しそうにもてなしてくれる。この主人の接待の良さを見ると、逆に嫌な気分になる。色々と返礼をする。家の人の立ち振る舞いは美しく、礼儀正しい。


十六日、けふのようさりつかた京へのぼるついでに見れば、山崎の小櫃の繪もまがりのおほちの形もかはらざりけり。「賣る人の心をぞ知らぬ」とぞいふなる。かくて京へ行くに島坂にて人あるじしたり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちてゆきし時よりはくる時ぞ人はとかくありける。これにもかへりごとす。よるになして京にはいらむと思へば、急ぎしもせぬ程に月いでぬ。桂川月あかきにぞわたる。人々のいはく「この川飛鳥川にあらねば、淵瀬更にかはらざりけり」といひてある人のよめる歌、「ひさかたの月におひたるかつら川そこなる影もかはらざりけり」。

十六日、今日の夕暮れ時、京へ上るついでに見れば、山崎の町の小櫃の絵も曲がりの大路の形も変わっていなかった。「商売人の心など知らぬ」と言うようだ。そうして京へ行くために島坂で人がもてなしてくれた。やらなくても良いはずだ。旅立っていく時より戻ってきた時に、人はこのように色々したがる。これにも返礼をする。夜になって京に入ろうと思ったら、急ぎもしないうちに月が出てきた。桂川を月明かりのもとに渡る。人々曰く、「この川は飛鳥川ではないので、淵も瀬も全く変わらないよ」と。ある人が「月に生えるという桂の名前を付けられた、桂川の底に映る月の影もずっと変わらない」と詠んだ。


又ある人のいへる、「あまぐものはるかなりつる桂川そでをひでゝもわたりぬるかな」。又ある人よめる、「桂川わがこゝろにもかよはねどおなじふかさはながるべらなり」。みやこのうれしきあまりに歌もあまりぞおほかる。夜更けてくれば所々も見えず。京に入り立ちてうれし。

またある人が言うことには、「天雲のように遠くに思っていた桂川をこうやって袖を濡らして渡ったよ」と。またある人が「桂川は私の心に通っているわけではないが、私が京と懐かしむ心と同じ深さで流れているようだ」と詠んだ。帰京の嬉しさのあまりに歌もたくさん詠まれるのだ。夜が更けると所々見えない。京にたどり着いて嬉しい。

>嬉しすぎて和歌を爆誕させまくる一行。嬉しさの表現が独特だな。現代でこれやる人いるかな。


家にいたりて門に入るに、月あかければいとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれ破れたる。家を預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。中垣こそあれ、ひとつ家のやうなればのぞみて預れるなり。さるはたよりごとに物も絶えず得させたり。こよひかゝることゝ聲高にものもいはせず、いとはつらく見ゆれど志をばせむとす。さて池めいてくぼまり水づける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに千年や過ぎにけむ、かた枝はなくなりにけり。いま生ひたるぞまじれる。大かたの皆あれにたれば、「あはれ」とぞ人々いふ。

家について門に入ると、月が明るくてとてもよく様相が見える。聞いていたよりもずっと表現しようもなくボロボロになっていた。家を預けた人の心も荒れてしまったようだ。中垣はあるが、ひとつ家のようなものなので、隣人が望んで預けたのだ。それにもかかわらず、こちらは便りをするたびに品を送り続けたのだ。今晩はこのような荒んだ様子を大声で言わせたりはせず、ひどいとは思うけれどもお礼はしよう。それはそうと池のように窪んで水に浸かっているところがある。ほとりに松もあった。五、六年の間に千年が過ぎたのだろうか、半分が無くなっている。新しく生えてきたのも混じっている。大体が荒れているので「なんてこと」とみんなで言う。

>松の話題で「さて」と置いてるの、すごい怒りを感じる。もう少し取り繕おうとは思わなかったのか隣人よ。これから帰るよ的な手紙はあったでしょ。もうちょいマシな状態にできたんじゃないのか。これからも隣人ではあるんでしょ。ねえ。「五、六年のうちに千年が経ったのか?」ってすごいこと言わせてるじゃん。


思ひ出でぬ事なく思ひ戀しきがうちに、この家にて生れし女子のもろともに歸らねばいかゞはかなしき。船人も皆子だかりてのゝしる。かゝるうちに猶かなしきに堪へずして密に心知れる人といへりけるうた、「うまれしもかへらぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ」とぞいへる。猶あかずやあらむ、またかくなむ、「見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや」。わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾くやりてむ。

思い出さないことがなく恋しいことの中でも、この家で生まれた女の子もろとも帰ってこないのはどれだけ悲しいことか。みんな集まって大騒ぎをする。そうしているうちに、なお悲しさを堪えられず、ひっそりと信頼できる人と詠んだ歌が「ここで生まれて帰ってこないものもあるのに、私の家に小松が生えてきているのを見る悲しさ」というもの。それでもまだ悲しくて、また同様に「生き姿を見ていたあの子が松のように永く見ることができていたら、こんな遠く悲しい別れをしなかったのに」と詠んだ。忘れがたく悔しいことも多いけれど書き尽くせない。とにもかくにも早く破ってしまおう。

>「とまれかくまれ疾くやりてむ。」これで終わるの悲しい。ここで破られずに残ったから今でも読めているんだろうけど。ああ、こんなに頑張って戻ってきたのに月明かりの下でボロボロになった我が家が待ち受けてるの悲しすぎる。



『土佐日記』は紀行文と思って読んでいたけど、そういうことじゃないな。我が子を失う悲しさがずっと付き纏っていて、いくら楽しいことがあってもいくら嫌なことがあっても、その悲しさが薄まることはなく、この先の人生もずっとそれを背負って生きていくんだなと思った。紀貫之〜〜〜!なんかさあ、もうずっとウジウジするのやめろよって周囲の人は思うんだろうけど、本人は絶対に忘れることなんて出来ないじゃん。自分の立場分かってるから、人前では悲しさを見せないように気丈に振る舞うし、ある時は楽しさに没頭して亡くなった我が子のことを考えないこともあるだろうよ。それでもふとした瞬間に思い出しちゃうんだろうな。宴会で楽しく酔っててもその時にフッと酔いが覚めるんだよ。紀貫之〜〜〜!

筆者が『土佐日記』を書くにあたって女性のふりしたのって単に奇を衒うためじゃなくて、自分の子供を想ってしずむ気持ちを「男のくせに」とか言われずに書くためだったんじゃないか。ちゃんと泣きたかったんじゃないか。子供が亡くなってからずっと、その気持ちをどこかに書くことで気持ちを落ち着かせたかったんじゃないか。帰れなくて辛いよ〜とかこんな楽しいことがあったよ〜とか嫌な奴がいたよ〜とか、そういうことも書き残しておきたい気持ちもありつつ、並行して、悲しさを書きたい気持ちをカモフラージュするために書いているようにも見える。


普通に途中から飽きて、もう古文を読むのはnoteに書くまいと思ったけど、この感想に至るなら途中で辞めなくてよかった。人間が粒々と立って、それぞれに人生を抱えている。船酔いの老女よ、舵取よ。彼らにも彼らの物語があるんだよな。



こういう系の話が好きな方は↓をどうぞ。

次回更新 3/11:『土佐日記』読み終わったのでまた別のことを
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。


めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。