セラピストなのに「相手の気持ちに寄り添いましょう」ができなかった話
私たちは常々「相手の気持ちになって考えなさい」と教わり育った。
クラスでケンカが勃発したときとか、道徳の時間とか。
そう言われるわりには、相手の気持ちになるための過程を教えてくれる人はいなかったのではないか。
相手の気持ちになるってどういうことだろう。
「でも、お兄さん笑ってたよ」といい叱られるクソガキ時代
小さい頃、お向かいのお兄さんの自家用車を自転車で擦ってしまい、母親からこっぴどく叱られた。母親に連れられて、お兄さんの目の前で謝罪をした。というかさせられた。
「車に傷をつけてしまうことはダメなことだったらしい」という知識を得たが、お兄さんは謝罪中ずっと笑顔だった。今でこそ、向かいの家の子どもに負の感情をぶつけるなんてことは自分でもできないと分かるが、当時「謝罪=泣いたり怒ったりしているお友だちに対してするもの」という認識しか持ってきなかった私は「でもお母さん、お兄さんずっと笑顔だったよ」なんてクソガキムーヴをかまし、さらに叱られた。
それからいろんな経験を経て、人の気持ちになる方法として
①相手の置かれている状況の把握
②感じている感情が喜怒哀楽のうちどれか
③相手にかける言葉の選定
の3段階を無意識に行ってきたように思う。
地域のクソガキ、大学で「傾聴」を学ぶ
ご近所の車を擦った地域のクソガキはその10年後、福祉系大学に進学し「傾聴」について学ぶこととなる。大学の授業ではよく「傾聴の基本は、相手に寄り添い、耳を傾けること」と言われている。
福祉や医療の専門分野でなくても、傾聴はコミュケーションをするうえで万能なスキルである。
女友だちに「彼氏と別れたい(泣)どうしよう、、」と言われれば「そうだよね…○○ちゃんはこんなに頑張ってるのにつらいよね…」などと共感しているうちに「ありがとう!すっきりした!もう少し頑張ってみる!」と吹っ切れていく。
物事の白黒をつけるよりも、相手の混乱を鎮める時間を作ってあげるほうが有効な場合があると知った。
これまでの人生で、そんなに嫌なら別れれば?みたいな、合理的なアドバイスしかしてこれなかった自分には革命的な学びだった。
ボランティアでの不思議体験
大学在学中に、私はとあるボランティアに参加することになる。家族を失った経験のある子どもへの、セラピーボランティアである。
内容は、子どもたちとの自由な遊びをベースとする。その中でふと喪失体験や亡くした家族についての話が出たら、否定も肯定せずに聞くというプログラム。
自分が学んだ「傾聴」を存分に活かせると思った。
当時は臨床心理士志望だったこともあり、積極的に参加を決める。
初めてのプログラム参加で、私たちは大人も子どもも関係なく、遊びをとおして同じ時間を過ごした。
プログラムも終盤に入り、最後の作業として「家族に手紙を書こう」的な行事があった。子どもたちは手紙を書きたい相手、主に亡くしたご家族に向けてすらすらと想いを記していく。書いた内容は、特に周りにはシェアしない。
しかし、私とペアになった子は諸事情で直筆の手紙を書くことができなかったため、私がその子の書きたいことを口頭で聞き取り、代筆した。
手紙の相手は、もちろん亡くしたご家族に向けてである。
無事プログラムが終了し、大人のボランティアスタッフだけが残って反省会をした。私の番になったとき、手紙を代筆した貴重な経験をみんなにシェアしなければと思い、話し始めた瞬間
涙がぶわっと、目の奥から溢れてきた。
おかしいな。
しかも堰を切ったかのように、濁流のように、流れ落ちてくる。
先輩がすかさずティッシュを持ってくる。
「たぶん、私にはまだ抱え込めない内容でした…………」
記憶は曖昧だが、そんなことを話して発表を締めた気がする。
人の気持ちには到底なれない
今なら私の不思議体験が
自分の技術不足
ボランティアにしてはイレギュラー対応だった
あたりからくるストレス反応だったことがわかる。
相手の気持ちになれるというのは、幻想に過ぎなかった。というか、私がしようとしていたことは単なる感情移入にすぎなかった。
結局のところ、私が成長段階で手に入れた
①相手の置かれている状況の把握
②感じている感情が喜怒哀楽のうちどれか
③相手にかける言葉の選定
のように、技術化・セオリー化されたものこそが臨床現場でいう「相手の気持ちになる」だったのかもしれない。
そもそも、臨床現場では感情移入していては心身がもたない。自己とは切り離して考えなければ、きついものになってしまうのだ。
自己と相手を切り離すのが苦手で、臨床現場を離れてしまった人を何人か知っている。
相手は案外、そばにいてくれるだけで助かっている
とはいえ、じゃあ臨床現場の方々が日々機械のように、感情移入しないようにスキルを高めているかといえば、そうでもないと感じる。
その後勤めた福祉施設でのプロたちの対応を見るに、相手の感情全てを取り込むのではなく、そばにいることに重きを置いているように思う。
自分が相手にのめり込んでしまうと、共倒れしてしまう。自分が満たされてるからこそ、相手のことを考えられる。
ただ、常に自分が満たされた状態の人も、現代にはなかなかいないように思う。
そんなときは、ただ、黙って同じ方向を向きながら横に座ってあげればいい。
誰かのエッセイで、もう死んでしまいたいと思って公園でぼーっとしているとき、支えになったのはいつもそばに来てくれてじっとしている野良猫だったという話を読んだことがある。
人は「自分は一人じゃない」というメッセージさえ受け取れれば、なんとか生きていけるのではないか。そこに存在してくれて、画面の向こうに気にしてくれる存在がいて、そんなもんで、いいのではないか。
今、あなたに助けてあげたいけど助けてあげられてない人がいたら、全てを背負い込む必要はなく、一緒の時間を共有してあげてほしい。
相手はその瞬間から救われているはずだから。
そんな元クソガキの言葉を、覚えててくれてたらと思います。
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