特性を明らかにして認めること

幼少期より自分がどれだけ偏った凝り性であり、それが故に、偏った潔癖症でもあり、基本的に落ち着きがなかった。今みたいに情報があれば、それってあれなんじゃないの?と予測も付くのだが、そうじゃない時代を過ごしてきて、それがどれだけ悩みの種となったか、それなりに長く生きてきて、ようやく開き直った訳でも、いまだに克服した訳でもないけれど、今となってはもう一生付き合っていかなければ仕方がないということ、そう思えるようになったのは、理解しようとするどころか、その特性を持つことすら知らない親だったり、その他の血縁のある人たちだったり、他人より無遠慮な人たちとの縁が切れたり薄くなったりしたことがきっかけだったこと、そんなよしなしごとを、絶妙な距離感の他人と語り明かしてみたいが、そのような機会に恵まれるようなこともないのだろうな、と思ったりして少しさみしい気がする日もある。

すべてを受け止めて受け入れて、それを踏まえた上でこの先も生きていくことに間違いはないと思うのだけど、そんな自分は、第三者から見るとどんな風に映るのだろう?

つまり、真意はどうあれ、誰かに無条件で是認して欲しいのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?