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否定を求める私

自動ドアが人に気付いて扉を開けるような、エレベーターが押したボタンの階へ人を届けるような、私は、そんな日々を、歩んでいた。

望まれるように生きてきました、他人が望むことが何かを常に考えて生きてきました、誰かの悪口を聞いたら、私はそうやって否定されてしまわないように、気をつけて、気をつけて、顔色を窺いました。親や先生、大人の言葉を聞いて、こうしなさいと言われたら、余程嫌でない限り従いました。私は、認められたかった。褒められたくて、いい子でありたかった。

そんな風に生きていたら、自分と、自分を肯定する方法が分からなくなりました。自分らしさってなんですか、芯とはなんですか、良い人であろうと努力して私の感情を押さえつけることは、私を偽ることですか。

自信が無いから、自分の意見をはっきりと言えないし、緊張してしまう、それを聞いて、そんな自分は嫌だったから、褒められる自分じゃないと思ったから、自信を持ちたいと思った。どうすれば自信を持てるか調べたら、今の自分を認めることだと書かれていた。みんなは、誰かがその人自身を褒めた時、ナルシストだと批判した、大したことないのに調子に乗るなと言っていた。だから、ずっと、自分を認めたり、褒めたりすることは、してはいけないことなのだと思っていた。なのに、自信を持つためには今の自分を認めること大切、だなんて、混乱して、私にはどうすればいいのか分かりませんでした。

自分を認めてはいけないと思ってずっと生きてきた私には、自分を認めることなんてとても難しかった、だから、さらに誰かに認められることを望みました。自分で自分のことを認められないから、代わりに他人に認められたかった、それを自信にしたいと思った。それは、また求められるように生きようとする私へと導くことになりました。私はずっと、そんな自分に気づいていて、いい子だね、優しいね、と言われる度に、ありがとう、と口では吐きながら、違う、そうじゃない、私はいい子なんかじゃないと、心の中で否定してきました。

褒めてもらえた時、本当に嬉しいと感じるし、そう思ってくれてありがとう、と心の底から思う。だけど、自分に対してそう思う事が出来ないし、本当はそんな人間じゃないと、私はその言葉を素直に受け取ることが出来なくて、友人達を騙しているような気がして、苦しかった。私の友達は素敵な子ばかりで、優しい人ばかりだ。否定されるのが怖くて、私がそういう人達といることを選んだのかもしれないけれど。そんな人達だからこそ、ちゃんと受け取りたい、と思うけど、過去の言葉達を思い出して、私はナルシストじゃない、だから否定しないでって頭の中で呼びかけてしまう。そこにはもう、誰もいなくても。

私はずっと、自分のことを誰かに認めて欲しいと望んでいる人間だと思っていた。だけど、この前友人に、「否定してくれる人が必要なんだね」と言われた時、いつの間にか、私の本質を突くように否定して欲しいと思うようになっていたことに気づいた。

最近は、私の中で、認められたい、と、否定されたい、が共存して、駆け回っています。
私はこの感情の扱い方を、まだ知らないけれど、どこかでずっと望んでいたものが何だったのかが分かって、すごく嬉しかった。

結局、私はいい子でありたいし、私らしくもありたいです。私の中で、感情が渦を巻く、そんな私も、私でした。



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