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そんな眼で見返さないでくれ —『狭小邸宅』(新庄耕)

主人公の松尾は不動産の新人営業マンだが、家が少しも売れない。上司は早々に見切りをつけ、パワハラで退職に追い込もうとしてくる。会社としては新人が辞めても次を採れば良いので問題ない。どうせ何割かは辞めるという前提で採っているのだ。替わりの若者は社会がいくらでも供給してくれる。

松尾は少し良い大学を出ているらしい。彼が不動産屋で家を売ってることに大学の友人たちは不思議に思っている。なぜ、そんな仕事をしているのか、と。歩合に収入が大きく左右されるギラギラした仕事をなぜ選んだのかと。もっと安定していて、やりがいのある仕事があっただろうと。(松尾は途上国の経済問題を研究する「開発経済学」のゼミ出身だ。「意識が高い」人々に囲まれているのだ)

大学の友人たちに見下されている。そう松尾は感じている。しかし、そう感じてしまうのは、家が売れないからではないか。家が売れさえすれば、見える景色が大きく変わるのではないか。

退職を強要される直前に、松尾は初めて家を売る。ほかの誰も売れない難しい物件だったから、一気に評価を高める。飛び抜けて優秀な課長の個人指導を得られるようになり、客を「契約」の方に追い詰めていく心理メソッドも身につけ、どんどん家が売れるようになる。身につけるものが高価になり、かつて自分を捨てた恋人も近寄ってくる。

「向いているいない以前に、営業マンとしてやるべきことがやれていない」。飛び抜けて優秀な課長は、客を物件に連れて行くときに幹線道路を使うな、路地でスピードを落とすな、などなど助言をくれる。細かいことだが、一つ一つに意味がある。松尾は「今までバラバラに散らばっていた知識の断片が少しずつ繋がっていくようだった」と思う。松尾が営業マンとして開眼していく描写にはリアリティがあり、読んでいて自己啓発的な喜びがある。

しかし、これは安い自己啓発ノベルじゃないのだ。松尾がそのままうまくいくはずがない。典型的すぎて詳細に説明する気が起きないが、彼は“大事な何か”を失うのである。人間として必要なものが“すり減っていく”のである。

自分でも気づかないうちに疲弊する松尾に、飛び抜けて優秀な課長は「やっぱり駄目か」と早々に見切りをつける。おまえはこのゲームを遊べない、そこで人々が営む暮らしを捨象した単なる記号としての家を右から左に動かして利ざやを稼ぐ、動かせば動かすほどに価値が生じるが故に速度がすべてのこのゲームを、おまえは遊べない。重くて、遅いから。

資本主義(飛び抜けて優秀な課長)が負け犬(松尾)を見つめている。

それはまだ良い。負け犬はもう一つの視線にさらされている。

「金が全ての人生なんて俺は嫌だね。金に群がるハイエナになるのは」。「金にたかって欲に塗れる人生もいいけど、もう少し考えた方がいいよ」。この小説の終盤で、松尾に投げかけられる言葉だ。人を騙すようなセールストークで家を売りつける松尾よりも、まともな仕事をしているであろう人物たちによる言葉だ。資本主義の泥沼に浸かっていないと(自分では)思っている彼らが、泥沼でのたうちまわる松尾を見下ろすまなざしがグロテスクに描かれていることが、この小説の良いところだ。

そのまなざしは、松尾によって見返されている。「金のためだけに働く自分は見下されている」と感じている松尾が、泥にまみれて彼らを見上げている。彼らはもしかすると松尾よりも相対的に正しいのかもしれないが、見上げる松尾のまなざしの方がどう見ても強い。小説の終盤、誤った分岐の先にたどり着いた隘路で何事も解決できず疲弊し自己を肯定できなくなった松尾の方が、まだまだ断然強い。

資本主義の暴風から一瞬身を隠せる窪地のような世界を描く小説は多い。いわゆる文学というもの自体がそういう窪地の役割を果たしている面もあるだろう。それは意義あることだと思うが、わたしにはこの小説が宿すようなギラつきしか身体が受け付けない時期がある。

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