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私が選んだんじゃない、君が私を選んだんだ。

本日は雨でございます。私の予定はお天気予報で決まりますもので、もう2週間も前からこのお天気を存じていて、自宅作業の日となっておりました。いかがお過ごしでしょうか。

つい先日、雲多めの晴れの日に珍しく実家へと出向いていました。父との関係があまり芳しくございませんでして、まともにお話ししたのは2年ぶりになるのかもしれません。芳しくない理由は、こちらの記事で書かせていただきました。

身内の恥なので有料記事にしてしまいましたが、要するにお正月実家へ帰りましたら、父と言い合いになり、帰れと言われましたので帰って来たという内容でございます。

お正月事件の後も度々父がやらかしているようで、身内の方々より私へと伝わってくるのです。私には帰れと言った父ですが、今度は一緒に住んでいる人に出て行けと怒鳴ったそうな…。他にも色々あるのですが、やりたい放題の高齢者としか私には見えなくて、関わると今度こそ親子の縁を切っても切られても全くおかしくないほどだったものですから、何も言わずじっと遠くから様子をうかがっていたのです。

何度も申し上げているのですが、私は心穏やかに毎日を過ごしたいのです。ただ、理不尽なことには黙っていられない質なので痴漢おじさんは捕まえますし、言葉遣いに問題がある方が絡んできた時にはご注意差し上げます。そして父の非常識言動には大論破するしかないのです。これらは好きでそうしているわけではなく、私の持っている質でございまして、本当はトラブルと一切関わりたくないのでございます。

そのようなわけで、今回はぐっと我慢をして何も言わず父の言動を見て見ぬふりでおりました。しかしながら、しばらく父の暴走を止める人が誰もいなかったことから、きっと前回よりもっとひどいことになっているだろうと覚悟しての帰省だったのです。正直帰りたくなかったですし、今までだってのらりくらりと理由を付けて関わらないようにしていたのです。

しかしながら、今回会って話してみると普通のおしゃべり上手な父でございました。表面上だけさらっと話しただけというのもあるかもしれませんが、不快になるようなことは一切ありませんでしたので、父は何かしらの気づきがあって改めたのか、はたまた年齢からくる悟りの境地にでも辿り着いたのか…。どちらにしても親子の縁を切らずに済んで本当にほっとしているのです。

今回のことを観察していても常々思うのですが、父は自分を貫きすぎるのです。父の身近には母がいるのですが、その暴走を指摘することはできません。何故ならこの何十年間も怒鳴られ歯向かわないように調教されているからです。もちろん父は正しさも持ち合わせていて、頼られることもたくさんあるのですが、それが自身のエゴを助長していて、正しくないことまで正しいと信じ込み、威圧して周りの人たちへの強要が始まってしまうのです。

「それってちょっと違うんじゃない?」なんていう他愛ない他からの意見やアドバイスをそうなのかな?って疑問に思うだけでもしていたら、もっと違う風になっていたのかもしれん。誰かの意見を素直に聞き入れてみたり、いったん自分の中に入れて考えてみることをしてこなかった結果が、今の父なのだろうと思います。

「誰かの思想が自分の貫きすぎる思想を中和してくれる」

私は心も体も比較的引きこもりがちなのですが、父の反面教師のおかげで誰かの思想に触れることの大切さを改めて気づかされるのです。誰かの思想に触れることで、無限の選択肢を得ることができる。もっと細やかな自分の在り方を知り、どうあるべきかの正解が明確に見えてくるように思うのです。それが結果的になりたかった自分への近道になると私は信じています。

ところが最近、自分を作り上げているのは自分の選択だけではないかもしれないことをネットで知ることとなりました。YouTubeでよく拝見している理容師さんなのですが、この方いつもシルクハットを被っているのです。何故シルクハットを被っているかについて語っている動画を先日見つけて拝聴したのですが、目から鱗が落ちました。

「僕がシルクハットを選んだのではなく、シルクハットが僕を選んだから被ってる」と。選ばれたからそこに存在するパターンもあるのか。確かに考えてみれば、私が気が付いていないだけで選ばれていることもあるのかもしれません。ちなみにシルクハットの理容師さんは、動画がバズりまくってその人柄の良さまで注目され、不動の地位を築いていらっしゃいます。

自分が何かに誰かに選ばれたというパターンとはどのようなときかと考えてみますと、何故そのモノがそこに存在するのか自分で説明できないときではないかと。

実は先日私はビカクシダ(コウモリラン)という植物を購入してきたのです。最近人気の植物で植物のお店などではとても良く見かけます。見るたびに何故夢中になる人がいるのか全く理解できないと思っていました。でもなぜか先日IKEAに行ったとき、このビカクシダが目に飛び込んできて、3つあるなかの一つを購入してしまったのです。しかも家具屋さんで何故植物なのか。買うならもっとたくさん売っている専門店でしっかり選んで買えるはずなのに…。いまだに購入した理由を説明できないでいるのです。

まさにこれが何かに選ばれたパターンなのかもしれません。私が選んだのではなく、植物のほうが私を呼んだ(選んだ)。それなら納得できる気がします。こういう選ばれるパターンで運命を共にする場合もあるということを心の片隅に留めておけば、自分ではどうにもならない運命を受け入れやすくなるのかもしれません。諦めの意味でなく、前向きの、という意味で。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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