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映像における演技について

昨年2020年に演技論のゼミでの発表のために書いたテキストです。多少間違いもあるかもしれませんが体験から感じていること、考えたことを書いております。

  今日は映像、主に劇映画における演技について、私が考えていることについてお話したいと思います。私はまず俳優をやっていて、さらに短編映画の監督をしたことがあり、演出もやったことがあるという視点でお話しをします。

【俳優としての映像の中での演技の経験の印象】
俳優として自分が出演したときには演劇のほうが時間をかけられるので自分が関わっている感じを強く持てます。映像は一瞬を切り取られてすぐに終わってしまう感じで待ち時間の方が長い印象さえあります。撮影現場で俳優は終始待ち時間です。映画の撮影現場では俳優はゲストのようです。
映画の撮影での演技をする感覚は舞台では稽古でやっていることを援用してセリフを覚えるなどの準備をしていき抜き稽古のシーンごとのパーツを切り取られていくような感じです。撮影は照明や映りの確認など準備が多く演技の撮影に入るまでにとにかく待ち時間が多いのです。待ち時間が多いわりにやっと始まったと思ったら3回も同じシーンを演じればもうそのシーンの撮影は終わってしまいます。舞台ならば何度も何度も稽古をして本番も何回もあるというのに!
撮影機関に数日しかかけないような低予算の現場しか経験がないので長期間の撮影に及ぶ映画においてはまた違った思い入れができてくるのかもしれないのですが。私には映画の撮影での演技の経験には何だかあっけない印象があります。

【切り貼り繋ぐ】
映像独特という感じがするのが映画は映像を撮るだけではなくて、それを切り取って貼り付け整音したり音楽をつけたりという編集作業をするということです。映像(映画)はどんなに広い視点を持とうとしてもある意味で監督の1人称で編集されているものだと思います。それは編集され監督の意図によって1本の線につながれています。フィルムというのはもう物理的に1本の線に繋がっているものです。途切れない流れを作るためには一つの解釈のレールを繋がざるを得ません。

【映画監督=作家、演出家=作家】
もしかしたら20世紀に演出家が大きな力を持つようになったのは映画監督の登場と関係しているのではないかと感じています。映画監督の役割が舞台の演出家と重ね合わせられたのではないかと想像しているのです。 (※発表時に指摘あったので補足しておくと実際には演出家の登場の方が歴史的にはやいようです。)映画監督が作家として扱われるようになり、同時期か少し遅れて演出家も作家という扱いを受けるようになったという感じがします。それ以前の時代の演出家というのは今想像するイメージとすこし違うように感じます。作家というよりは管理者のような役職的な感じがします。
逆になぜ映画監督は作家扱いされるようになったのでしょう。私は先ほど言ったような一本の筋を通して作品を一つの視点をもった作品として成立させるというところが監督の腕に掛かってくるからではないかと思います。
そこで、監督=作家という視点からいうならば映像はある意味では絵を繋いで行けばよいのだから映っているのは俳優でなくてもいいのです。絵であっても物語を語ることができます。むしろアニメーションのほうが純粋に監督のイメージを伝えることはできるのではないでしょうか。俳優の演技もある意味その俳優の世界に対する解釈です、一つの視点です。俳優が演じることによって沢山の夾雑物、さまざまな異なる世界の解釈がそこに混在することになります。だからかどうかはわかりませんが俳優を使いたがらない監督もいます。自分の意図を純粋に伝えたいとなるとそのほうがよいかもしれません。

【では俳優=作家か?】
それでもなお俳優の演技が魅力的な映画は魅力的です。劇映画は演技の記録でもあります。演技もある意味、俳優の1人称によって組み立てられています。以前スタニスラフスキーの回でスタニスラフスキーは映像のフィルムを思い浮かべて演技をするのがよいと言ったというお話がありましたがそれを聞いたときある意味でまさにそうだと思いました。実際に演技をする際に俳優はどういった作業をしているのか。演技をつくるというのは(役のあるテキストの場合)テキストのなかのキャラクターの意識のつながりを繋いでいくものでそれは映画の編集作業のようです。俳優は自分の役に関して作家であると私は考えています。
稽古はその意識のつながりを繋いでいくためにするような部分がかなりあるとおもっています。誰がいつどのタイミングでどこを意識し何に反応し意識を繋いでいくのか、その確認が(稽古でシーンを繰り返すなかで)なされているわけです。そして演技の意識はその俳優が演じるキャラクター1人の意識に留まらずその一本の演劇の意識の繋がりにもあります。俳優同士はそのリズムを途切れさせず、場合によっては気持ちよくその場のリズムを崩しながら新たなリズムをつくり緩急をつけて作品を紡いでいくのです 。
(そしてそれをまた一つの作品として脱線しすぎないよう纏めるのが演出家かもしれません。)

【映像と演劇の演技の違い】
映像と演劇での演技に根本的な違いはないと感じます。舞台の演技が大きいという印象は演技を届ける意識の範囲の広さが(劇場の大きさとか観客の人数だとかの条件が)演技に影響しているのではなかろうか。慣れれば意識の範囲を変えることはそんなに難しいことではないと感じます。しかし大きい範囲を意識で埋められる人が小さい範囲に意識を狭めることは比較的すぐにできるけれども小さい範囲の意識から大きい範囲を埋めることは技術の習得(単純に声が出るかとか、遠目からの絵がどう見えているかの把握とか)が必要になるためいくらか時間がかかるようには感じます。しかし根本は変わらないとおもいます。それもまた一個の条件のなかの話ですが演技の根本はしつらえた条件の中でいかに反応し反応させるかということではないかとおもいます。その反応の出力を意識の範囲によって大きくしたり小さくしたりしているのです。

【エキサイティングな瞬間】
俳優をやるときも、監督として映画を作った時も一番わくわくするのは観客の反応を肌で感じる瞬間でした。映画を監督してみて一番面白かったのは自分の繋いだ映画の観客の反応を外から見ることができたことだったかもしれません。俳優は自分の中からからしか観客を感じられませんし、演出をした時には今そこで演技している俳優に気を取られてしまって観客の反応をそこまで集中して見られませんでした。舞台では最終的に本番での息をコントロールできるのは俳優です。自分の意識のリズムに観客の息が合ってくる瞬間の気持ちよさはちょっと得難いものがあります。しかしこれは少し危ないことかもしれないという予感も感じます。しかし人間にはこういう瞬間も必要なのではないかとおもうのです。それが正しさとは全く関係ないという認識をもちながらも一体感は感じたいのです。

【映像は時代を超える】
それともう一つ映画の利点は時代と場所を超えられることだと思っています。
100年前の100年前よりも現在の100年前のほうが格段に身近に感じられるだろうと私は思います。なぜか、それは現在2020年の100年前は1920年。もうすでに映画がある時代だからです。私は21世紀前期の日本で生きていながら20世紀初頭のアメリカやフランスの映画や2次大戦直後の日本の映画を楽しむことができます。これはすごいことじゃないかと思うのです。リアルタイムの映画ももちろん面白いのですが、映画のすごいところは残るところです。100年前の俳優も現在活動している俳優も同じように画面上で動き演技しているところをみることができます。そして見る側からしたらその俳優と自分との距離は100年前の映画でも2020年の映画でもそこまで違わないように感じられるとおもいます。頭で考えればその距離を理解できるのですが画面上からの距離は今生きている俳優ともうこの世にいない俳優とたいして変わらないということです。このことは当たり前なのにとても奇妙な感じがします。
とはいえ、それをいったら架空のキャラクターが動くアニメーションであってもそう変わらないかもしれず、話はいよいよこんがらがってきそうですが今日はこのあたりで発表を終えたいと思います。
本日はご清聴ありがとうございました。



おわり

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