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シン・エヴァンゲリオンが僕らに与えたものは想像力だった。

僕は、小学生高学年の時『新劇場版:序』を観てエヴァンゲリオンのファンになった。

いや、ファンになったかは怪しい、なにせ今回の新作を観るまではっきりと「エヴァンゲリオンが好きだ」と言ったことは一度もないのだから。
それは、あの作品を挙げることが一種の自慰行為のように思えたから。(今思えばそれも若さ故の奇妙な自意識からなのだが)

だが、初めて碇シンジと綾波レイに出逢い、最後に宇多田ヒカルを聴いたあの時から、エヴァンゲリオンの物語が持つ重力に心を囚われたことは確かだ。旧シリーズは一瞬で消化し、破、Qも劇場に足を運んだ。それから8年。
もう僕は23歳になっていた。公開日当日の日記を記す。

2021年3月8日、シン•エヴァンゲリオン劇場版を観た。小雨で冷える朝だった。
中央線に乗って、立川駅で降りた。
僕含め日本中のファンが、少なからず期待ではない感情も抱いて公開を待っていた。

公開前、インターネットで父親の葬式という比喩を見かけた事がある。成る程、早朝の待機列を作る頼りない背中たちにはまさに、参列という言葉が相応しいかもしれない。別に行って楽しいわけじゃないけど、行かなきゃいけない。父の葬式。そこから先は、もう子供ではいられない。
少年だったあの日、綾波レイに、アスカに、碇シンジに出会った僕たちは、それを運命づけられていた気がする。

そして終劇。
そうか、僕はこの作品が、又は碇シンジが、14歳のままずっと止まっていたことにモヤモヤしていたのか。
初めて『新劇場版:序』を観た小学生の時から何も写し出さないアニメだったけど、最後にこの作品は、意味と共に究極のオリジナルになったのだと信じたい。

あのラスト、綾波やアスカといったアイコンとは結ばれない結末は子ども特有の全能感と対をなすアダルトな不能性、夢の終わり、マチュア的な価値観の象徴として印象に残る。キャラクター造形から監督を離れているマリはいわば作品の外部存在であり、彼女と結ばれたとしても「結末でアスカに振られないエヴァ」≒(00年代付近の定義での)セカイ系ではないことは留意する必要がある。
ここが重要で、後から出逢った過去を知らない女性と結ばれる事は、仕組まれた運命からの卒業を意味する。この為にマリというキャラクターが生まれたのだと納得さえした。
(もしも最後自分を無条件で愛してくれる綾波レイと結ばれていたら、セカイ系美少女ゲームとしては成立するものの、アニメファンの慰み物に留まり、何も生まない駄作になっていただろう)
構造的に類似した結末としてパッと思いつくのは『神のみぞ知るセカイ』『おやすみプンプン』。
特に『神のみぞ知るセカイ』に至ってはギャルゲーマーがギャルゲーヒロインに対してケジメをつける≒千尋を選ぶというメタ的なラストがとても似ていて、逆にあの漫画への解像度が深まった。ありがとう。


エヴァンゲリオンが僕らにくれたのは想像力だと思う。放送当時から現在まで、幸せな、笑えるSSがネットを埋め尽くし、『碇シンジ育成計画』はコミカルパロディの走りのような存在となった。監督自身はアニメファンの稚拙と批判的であったが。こうあればいい、こうなって欲しいという願望を、並行世界に見ることを僕らは辞められないし、辞めたくない。幸せの別の形を願い模索する事は別に現実逃避じゃないんだ、そう監督にも認めてもらえたように感じた。

そして、あの庵野秀明監督が、自身の箱庭たる“駅”から少女と手を取って駆け出すラストを描いた。これ以上何が要るだろうか。そろそろ僕らも進むとしよう。

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