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「他人に興味はありますか」

みなさんは他人に興味はあるだろうか。

突然なんだよと思ったと思う。ただ、お願いだから10秒考えてみてほしい。

ここでいう他人とは、つまり「自分以外」だ。
普通、「興味のある他人」と言って思いつくのは仲良しな人、尊敬する人、気になる人なんかだろう。だが、ここではそういう人も全くかかわりのない人もすべてひとくくりにして総合的に「他人」として考えてほしい。
判断しにくかったら、以前と比べてみてもいい。

考えられたら、もう一つ。
それに対して自分がどう思うか考えてみてほしい。

「もっと関わりたい、話したい、知りたい」

そう思った人は多いのではないだろうか。
私ももっと他人に興味を持ちたいと思う。

なぜこのような問いをしたのか。
それは「相手を知ろうとする」心が現代人には足りないのではないかと思うからだ。

原因として考えられるのは二つ。

スマートフォンの普及とコロナ禍だ。

スマホが与えた影響

スマートフォンというものは実に便利だ。
これ一つあればどんな時も退屈することはない。
しかしそれ故、知らず知らずのうちにあらゆる機会、チャンスを私たちは奪われてしまっている。

朝起きたらベットの上でスマホ、歩きながらもスマホ、電車の中でスマホ、学校の休み時間でもスマホ、帰ってきてお風呂でもスマホ、ベットに横になってからもスマホ……
気づけばスマホを開いてしまっている。
現代人はスマホがなければ生きていけなくなってしまっているのだ。
体の一部といってもいいかもしれない。つまりサイボーグである。

スマホやアプリの開発会社は私たち利用者がどれだけ自社の製品に時間を使ってくれるか、を競い合っている。だから、中毒性の高いようにできている。例えばおすすめ動画、フォロー、いいねなどは典型的な利用者を沼に引き摺り込む工夫という訳だ。

スマホはどうしても自分に都合のいい情報しか流れてこない。
それ故、どうしても視野が狭くなってしまう。

画面の外の世界で起こっていることに気づけない。
これはとても勿体ないことだと私は強く思う。
それに、何と言ったらいいのかわからないが、自分の人生なのにスマホがないと生きていけないのはなんだか悔しい。
私たちがスマホをコントロールするのではなく、スマホに私たちがコントロールされているのだ。他にもいっぱい楽しいことがあるのに、それを体感せずスマホの中の思い出だけでこの人生を終わらせたくない。


そんな社会の変化があったが、このころはまだ人間らしさを失うまでにはいったっていないと思う。
他に、決定的に私たちの他人への興味を奪ったものがある。それがコロナ禍だ。

コロナ禍が奪ったもの

私は中学一年生のころ、誰からも話しかけられずクラスの中で孤独に生きていた時があった。それはコロナ禍だったこともあると思う。密がダメとされていた時代だ。人間の本質が制限されたことによる社会の変化は確かにあった。

さすがにこれはまずいぞと思って仲良くなってみようと行動してみた時も少しはあったが、反応が悪かったり嫌われたり、その行動を受け入れてもらえなかったらどうしようと怖くなってしまって結局何もできない。

ひたすらに私に声をかけてくれる誰かを待っていた一年だった。

春にあるクラス替えも怖かった。
また仲間外れになってしまったら、一年生の時と変わらなかったらどうしよう、と。
そんな気持ちと裏腹に、いいクラスに当たったら気の合う友達ができるかも、という他人任せで浅はかな考えも浮かんだ。何もできない自分が嫌で辛かった。

ところが新しいクラスに入って目にした光景は驚くものだった。

多くの子がよろしく!と声をかけあって自由に行動している。あちこちで自己紹介が始まる。笑いが絶えない。みんなこれからをともにする新しい仲間たちのことを知ろうとしている。

新しいクラスになってまだ初日だったが、すでに居心地がよかった。私もいろいろな子に話しかけてもらえた。

話しかけてもらえる、ということはつまり「あなたのことが知りたいです」ということだ。

自分に興味を持ってもらっている証なのだ。話しかけてもらえることは本当に嬉しいことだということを私は身をもって実感した。

クラスになじんできた6月、私は一人でいることの多いNちゃんを気にかけていた。

Nちゃんとは小学校が同じだった。が、同じクラスになったことは一度もなく、接点は音楽祭で一緒にタンバリンをたたいたことくらいしかない。Nちゃんは少しみんなより勉強や運動が苦手で、よく周りの子たちが面倒を見てやっていた。

担任の先生によるとどうやら中学一年生のころ不登校になった時期もあったらしい。背骨もよくないらしく通院しているとも聞いた。

ある日の下校時、私はいつも通り一人でまっすぐな道を歩いていると、私の先に一人歩くNちゃんが見えた。

これは仲良くなるチャンスではないのか。
でも、もし話しかけるのに失敗したら、嫌われてしまうかもしれない。そもそも一人でいたくて話しかけられたくないかもしれない。
一年前と同じような迷いが私の頭の上をぐるぐると回る。

このクラスになってこんな私でもみんなのおかげで前よりは話せるようになった。でもそれはみんなが話しかけてくれたからだ。私のおかげじゃない。私は恵まれていただけ……

「みんなも私と同じように話しかけてもらえるのを待っている、だったら今度は私が話しかける側になろう」

私は勇気をもって声をかけてみた。

するとNちゃんは少し動揺しながらも私の問いに笑みを浮かべて答えてくれた。
話してみると本当に面白くて、愛の強い子だということがわかった。

私たちは次の日もクラスで共通の趣味で盛り上がった。お互いの好きなことに一緒にのめりこんだりもした。

こうして私はかけがえのない親友に出会うことができた。
通う学校が別々になった今でもNちゃんとは連絡を取り合っている。

高校に入ってからも私はできる限り積極的にいろいろな子に話に行くようにしている。
高校生になると関わったことのないタイプの子が私に話しかけてくれることもある。それが本当に嬉しい。
大多数の人にとっては知らない人に話しかけに行くのは勇気のいることだ。だから勇気をもって私に声をかけてくれた子には私もそれ以上を返せるようにしている。

人はお互いに支えあって生きていく生き物だ。

自分のことを認めてもらいたければまずは相手のことを認める。
そうしあってはじめて、人は人でいられて、人らしくなることができるのだ。

スマホとコロナ禍が与えたもの

コロナ禍で私は人とのかかわり方を失ってしまった。
数年たった今だって、学校の仲間にどう接してよいのかわからなくなって落ち込むことがある。

コロナ禍が私たちから奪ったものを取り戻すには長い年月が必要になるだろう。
スマートフォンとのかかわり方も今後の大きな課題だ。

だが、少しずつだが確実に、人々は人間らしさを取り戻している。

私はそれがとても嬉しくて仕方がない。

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