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証券会社の売買手数料無料化の考察


1. はじめに 

 2023年秋から、SBI証券と楽天証券が国内株式の売買手数料を完全に無料化しました。本稿ではネット証券における経営企画・システム開発・事業開発の経験を踏まえ、この動きの背後にある戦略を分析します。一般的な経済メディアでの解説とは異なる視点も提供し、業界の今後について新たな気づきを得られる内容を目指します。 

2. 無料化はSBI流のマーケティング 

 かつて証券会社にとって株の売買手数料は収益の柱でした。しかし、手数料自由化によってネット証券が普及し、手数料率が段階的に引き下げられてきました。同時にネット証券で取り扱う商品も国内株から、外国株・債券・投資信託・FX・先物オプション・CFDなどへと多様化し、国内株式収益が全体に占める割合は相対的に低下しました。 

 2000年代前半、いわゆるライブドアショックの頃は、個人投資家の多くは国内株を中心とした短期・中期売買(トレード)が中心でした。一部の投資家が注目し始めたFX(外国為替証拠金取引)にも挑戦する動きが見られた時期です。 

 当時の投資信託は、現在の視点から見ると改善の余地が大きく、ノーロード(購入手数料無料)のファンドは少数で、信託報酬も1.5~2.0%前後の高めの商品が多く見られました。

 債券取引は、主にある程度まとまった資金を運用できる投資家向けでした。最近ではネット証券でも債券取引に注力していますが、品揃えは対面証券と比較するとまだ充実しているとは言えず、収益貢献は限定的な状況です。 

 FXは2010年代中盤のレバレッジ規制導入まで、取引高が急速に成長を続けました。先物オプションやCFDは、やや難易度の高い商品であるため、1回あたりの取引量は大きいものの、取り扱う顧客数は限られている状況が続いています。 

 SBI証券は大手ネット証券の中でも積極的に株式売買手数料の引き下げを行い、2000年代の中盤以降、業界首位の座を維持してきました。SBI証券は早い段階から取扱い商品の多角化を進め、ネット証券でありながら法人営業にも注力したことから、委託手数料が収益に占める割合が比較的小さく、今回の無料化に踏み切れた背景の一つと考えられます。 

 資産運用の大衆化や民主化という観点では、2000年代に既にある程度達成されており、これらの理念は表面的な理由に過ぎない可能性があります。本質的な狙いは主に2点あると考えられます。 

1. 競合他社の駆逐によるマーケットシェアの拡大

2. 顧客基盤の拡大によるグループ内シナジーの追求

 1点目は比較的理解しやすい戦略です。株式の売買は、どの証券会社で注文しても同じ内容であれば約定結果は同じであるため、投資家は経済合理性を重視すると、最も安価な証券会社を選択する傾向があります。この動きにより、既に経営難に陥っている地方の証券会社にさらなる打撃を与え、経営体力のある大手対面証券にも影響を及ぼすことになります。 

 ただし、国内株の売買シェアは既にネット証券が対面証券を上回っているため、これは新しい動きというよりは、既存戦略の延長線上の行為と捉えることができます。 

 2点目がより重要な戦略と考えられます。SBIグループは金融コングロマリットと呼ばれる複合企業体です。傘下に証券、銀行、保険、ベンチャーキャピタル、アセットマネジメントなど、様々な金融事業と非金融事業を有しています。今回の施策は、グループ全体の顧客基盤を拡大することが主要な狙いだと推測されます。 

 顧客基盤という観点では、SBIグループより楽天グループの方が大規模です。楽天は、傘下の楽天市場の顧客を楽天経済圏を活用して金融事業に誘導することで、近年、金融事業を飛躍的に拡大させてきました。 

 一方、SBIグループにはそのような大規模な非金融事業の顧客基盤がありません。SBIグループの中核はSBI証券であり、SBI証券以上に正確な顧客情報を有する事業体はグループ内に存在しません(単純なメールアドレス登録で済むサービスは除く)。

 そのため、SBIグループはSBI証券の顧客基盤をさらに拡大させ、そこを起点として他の金融事業への顧客送客を狙っていると考えられ、今回の無料化の狙いもそこにあると推測されます。 

 SBI証券単体で見ると、今回の無料化で顧客1人あたりの収益率は低下したはずですが、顧客数の増加によって全体の収益への影響は軽微に抑えられたと考えられます。

 これは戦略通りの結果かもしれませんが、手数料無料化の前後でビジネスモデル(収益モデル)に大きな変化がないことから、「身を切る攻勢」と評価できます。(例えば、収益モデルがサブスクリプション型に変化したのであれば、ビジネスモデルの転換と評価できるでしょう) 

SBI流の無料化マーケティングを示す図

 SBIグループとしては、今後、新規顧客を銀行・保険などより多くのグループサービスへ送客することに注力することになると予想されます。仮に新規顧客がSBI証券内にのみ留まり続けた場合、この戦略は失敗と言えるでしょう。 

 新生銀行への送客については、一定の効果が期待できると考えられます。その理由として、住信SBIネット銀行という前例があります。証券と銀行の連携は非常に相性が良く、グループ内での顧客送客は効果が期待できます(ハイブリッド預金や外貨即時入金、金利優遇などのサービスを通じて)。 

 その他のSBIグループサービスへの波及効果については、現時点では不確実性が高いです。間接的には、生命保険・損害保険会社や専業FX会社、暗号資産関連会社なども、SBI証券からの顧客流入による恩恵を受ける可能性があります。

 SBIアセットマネジメントなどは、SBI証券を通じてファンドの純資産額の増加が期待できるため、一定の恩恵が見込めます。総じて金融事業には一定のシナジー効果が期待できると言えるでしょう。 

 しかしながら、非金融事業へのシナジー効果の波及については不確実性が高いです。バイオ事業や海外事業、Web3関連事業などは、証券事業の顧客基盤の拡大から直接的な恩恵を受けにくいと考えられます。将来的にはプラスの効果が生じる可能性もありますが、短期的には主に金融事業セグメントにおけるシナジー効果として認識すべきでしょう。 

3. 無料化の先、付加価値の探求

 ビジネスである以上、本来は提供するサービスの価値に見合う対価を求めるのが正しいあり方と言えます。インターネット技術が発展し、オンライン金融が普及した現在において、金融取引をオンラインで処理すること自体には大きな付加価値が存在しないことは事実です。しかし、全く価値がないかと言えば、そうではありません。 

 証券会社の株式売買や、銀行の送金業務などは、それぞれの業法で定められており、金融庁の監督下にあります。業務ミスが生じれば、業務改善命令や業務停止のリスクも存在します。普段は意識されませんが、金融機関は大きな責任を前提に様々な機能を担っています。これは業務負荷やコスト面での考慮が必要な点です。 

 一方で顧客目線で「付加価値」に着目すると、金融機関の提供する金融商品・サービスには大きな差異が見られず、コモディティ化が進行しているのも事実です。そのため、顧客目線では金融機関を付加価値を生み出すサービス提供者というよりも、金融事務処理を提供するエンティティとして位置付けることができるでしょう。 

 事務処理を担うという位置付けでは高額な手数料の請求は困難ですが、コストをゼロにすることが適切かどうかについては議論の余地があります。銀行や証券会社の業務は、高度な管理態勢の維持やシステムの構築などの前提があり、内部投資のコストを考慮すると、完全な無料化は過度な対応とも評価できます。 

 今回のSBI証券が先導した一部取引の無料化は「適正なコスト負担」という観点からは逸脱した(過度な)行為とも言え、そのため前述の通り「マーケティング」として評価しました。国内現物株単体で見ると収益が存在せず赤字となりますが、この赤字を信用取引・投資信託・債券・FXなどの別商品で補填する構造になっています。 

 他の業種でも一部サービスの手数料をゼロにして、いわば撒き餌のように活用することで顧客基盤を拡大するケースが見られるので、大したことはないと思われるかもしれません。しかし、多くの場合はフリーミアムモデルを採用しているか、そもそものコスト負担が少ない場合、あるいは広告などの別収益が期待できる場合がほとんどです。 

 今回の事例では、別商品のクロスセルで収益を上げるという思惑はありますが、フリーミアムモデルは採用されておらず、広告収入が増加しているわけでもありません。むしろ無料化に伴い注文件数などの増加が予測されることから、システム増強が必要となり、コスト負担が増加する可能性があります。 

 このような理由から、通常の経営者であれば無料化という選択肢を取ることは難しいでしょう。ここにSBIホールディングス代表の北尾吉孝氏の経営判断の特異性が表れています。

 北尾氏の決断により競合他社に大きな影響を与え、楽天証券はみずほフィナンシャルグループへの身売り、マネックス証券はNTTドコモへの身売りという動きにつながりました。SBI自身はSMBCグループと10%の戦略的な資本提携に留まり、他社のように株式の過半を取得されるような事態には至っていません。 

 しかしながら、今回の施策は証券会社自らが提供するサービスの価値を否定したという側面があると考えられます。国内株の手数料が無料化されたのであれば、同様の機能を提供している外国株の手数料も無料化すべきではないか、という議論も想定されます。

 さらに拡大すると、金融商品の売買という行為自体は本質的な付加価値を創造しているわけではないので、「売買手数料」は全般的に無料にすべきではないか、という流れが形成される可能性もあります。 

 投資家目線では、有価証券の売買は現金と有価証券の等価交換に過ぎず、時価で等価交換しているだけなので付加価値が存在しないことは自明です。付加価値が存在しない単なる媒介であれば手数料を支払う必要はないのでは、という考えに至る可能性があります。 

 先述の通り、金融取引は事務処理を提供するエンティティとしての側面があります。多くの金融取引は等価交換か事務処理機能に集約されます。そのため、真の付加価値の創造に値する金融サービスは極めて限定的であると言えるでしょう。 

 付加価値の高いサービスは、インターネットを通じて安価に汎用的な形で提供されることはほとんどありません。一方で、対面サービスであれば全てが付加価値に分類されるかというと、そうではありません。単に人件費が高いだけのサービスも多く存在し、真の意味で「付加価値」と呼べるものは限定的です。 

 ラップ口座(投資一任運用サービス)は、付加価値を提供する一つのアプローチですが、必ずしも全ての投資家にとって適切とは限りません。しかし、以下の書籍には付加価値創出のヒントが示されているので、金融関係者の方々には一読をお勧めします。 

[金融サービスの新潮流 ゴールベース資産管理 - 奥田健太郎著]

 等価交換や単純な事務処理は付加価値とはなりません。これらを中心にサービスを提供しているネット系金融機関は、今後、大きな課題に直面する可能性があります。さらに、将来的にはネット金融のユーザーインターフェース(UI)がWebサイトではなくなる可能性も考えられます。現在はWebサイトやスマートフォンアプリを介しての取引が主流ですが、技術の発展により、今後は異なる形態になる可能性があります。 

 例えば、投資家が自身専用の資産運用AIを通じて、音声をベースに指示を出し、その指示内容をAIが正確に認識してAPI経由で各金融機関と通信することで、取引や情報の参照を行うという未来が想定されます。取引UIがWebサイトやスマートフォンアプリから音声・AI・APIへと変化すると、Webサイトやスマートフォンアプリは主役ではなく、補助ツールの位置付けになる可能性があります。 

 このような未来の金融取引モデルにおける付加価値は、どこに存在するでしょうか。答えは、自身の忠実なエージェントとして機能する資産運用(管理)AIにあると考えられます。取引の開始のトリガーは人間(投資家)ですが、取引実行、情報収集、改善提案、リスク管理、最適化(パーソナライズ)などの全ては、頭脳としての役割を果たす資産運用AIが担うことになるでしょう。 

パーソナライズされた新管理AIのイメージ図

 もちろん、資産運用AI(仮称)が投資家に必要な機能の100%を満たすことは困難です。しかし、複雑で高度な要望を持つ富裕層でない限り、90%以上のニーズは満たすことができると考えられます。メンタル面でのサポートや、会話の中から潜在的なニーズを引き出す業務など、定量化や数値化が困難な業務、感性に依存する業務は、しばらくの間は人間のアドバイザーや金融機関の領域に留まるでしょう。 

 短期的には、SBI証券の無料化は顧客基盤の拡大に貢献し、若干の収益貢献にもつながる可能性があります。SBIグループ全体には一定の恩恵が期待できますが、競合他社への影響は甚大で、既に業界再編の動きが見られます。今後は一部の証券会社の廃業も加速する可能性があります。 

 しかしながら、単なる無料化は本質的な価値向上(付加価値の創出)には直接つながりません。そのため、事業の本質的な価値の向上は伴わない点に注意が必要です。ネット証券、対面証券を問わず、金融機関・金融サービスには本質的な価値(付加価値)の提供が期待されています。この難しい課題に対する適切な回答を提示できた企業が、次世代の金融サービス市場で主導権を握ることになるでしょう。 

 現在、私の関心は主にこの分野にあり、本質的な価値(付加価値)をどのように定義し、サービスを開発するかについて整理を進めています。その手段として、高度なAIが様々な場面で利用できる可能性があります。ただし、AIはあくまでもツール(道具=手段)に過ぎませんので、効果的な使い方は人間が考える必要があり、サービスの総合的な方針もプロダクトマネージャーの判断に委ねられます。 

 金融機関・金融サービスは、遅かれ早かれ、ネット・対面を問わず、この本質的な価値の提供にフォーカスすることになるでしょう。ネットと対面は、その特性上、目標に到達するアプローチが異なります。ここで競争の勝敗が決まる可能性が高いです。ネット、対面それぞれの分野で、勝者は少数に絞られる可能性があります。 

 個人によって心地よいと感じる金融サービスのアプローチは異なるため、同じ目標に向かって異なるサービスを提供するネットと対面の金融機関は、自然と顧客の棲み分けがなされ、併存することになるでしょう。今回の無料化が次世代金融への第一歩であるとすれば、本格的な競争はまだ始まったばかりと言えます。 

 現状、SBIグループが一歩リードしているように見えますが、本稿で示した通り、無料化自体はマーケティング戦略の一環に過ぎず、本質的な価値の提供には至っていないことから、各社にとって挽回のチャンスはまだ十分にあると考えられます。 

 適切な競争は、健全なサービスの発展に寄与します。今後は「価格」とは異なる軸で各社が競い合うことで、金融サービスのさらなる発展が期待できるでしょう。真の付加価値を提供できる企業が、これからの金融サービス市場をリードしていくことになるはずです。

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