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社会構造の変化と投資家の生存戦略

1. はじめに 

 起業家として投資家として、しばしば将来の社会変化と金融ビジネスに思いを馳せることがあります。金融という変化の乏しい業界に身を置いていると、現在は過去の延長であり未来もまた現在の延長に過ぎない、と考えてしまいがちです。果たして未来の金融は本当に現在の延長線上に存在するのか?それとも世界線を跨ぐような大きな変化が訪れるのかを考えます。 

 金融業界は10年程度の周期で行き過ぎた振る舞いを市場の見えざる手によって修正されてきました。コロナ危機・リーマンショック・ITバブルの崩壊・・・どれも確率的には10年スパンで訪れるようなイベントではありませんが、市場はしばしば想定外の動きを見せます。 

 これらの金融市場のイベントを金融の枠を超えた社会構造・技術の変化の中で整理・解釈を試みるのが本稿の目的です。とはいえ軸は過去の振り返りではなく未来を焦点といたします。日本と世界という対比を通じ、世界の中の日本がどのように変化していくかを考えます。

2. 第四次産業革命の先

 人類史を俯瞰すると技術革新が加速したのは300年くらい前からであり、特に戦後にコンピューターの普及に伴い急速に加速しました。歴史を振り返ると労働者の多くは概ね単純労働に従事していたが、現代は単純労働の需要が減少し、高度人材のニーズが加速度的に増加しています。 

 これは社会全体の産業構造の変化に即し社会で求められる人材像が変化しつつあることを反映しています。同時にこの変化は厄介な課題を生み出しています。実際のところ要求される高度人材の供給が圧倒的に不足しており、労働市場には未だに高度経済成長時代を教育思想に染まった詰込み型人材が溢れており、需給のミスマッチが年々高まっています。 (特に日本においては顕著)

 創造性とテクノロジーを活用した労働生産性が求めたれる現代は労働市場における需給が過去に類を見ない程、偏っているように感じます。産業構造の急速な変化に教育体制・社会制度が追い付いていない証左であり、現在生じているギャップを放置することは国際社会から見た競争力の低下に他なりません。 

 先進国でベーシックインカム(BI)の議論が活発化している背景にはこのような需給ギャップが存在します。社会の要請の応えられる高水準の人材が圧倒的に不足しており、求められる人材とそうでない人材がかつてないほど分断される社会へと変化しています。 

 数百年前までは農業などの一次産業が経済の主体であり多くの労働者は特別なスキルが必要ではありませんでした。産業革命を経て機械化・工業化が発達した19世紀~20世紀においても労働者は機械を操作する労働者として大きな需要が存在していました。 

 しかしながら今日、AIの発展により新産業の創造と雇用が過去のように結び付かない世界に突入しつつあります。AIは新たな産業・市場を生み出す可能性を有しているが、必ずしもその市場規模に見合った雇用を生み出すわけではない、という仮説です。 

 従来の製造業と比較し同規模の市場に対して1/100程度の雇用しか生み出さない可能性も考えられます。これは端的に言うと、人間の労働者が必要となる絶対数の減少を意味します。加えて、集約型の低スキル労働もAIを活用した技術革新が損益分岐点を超えることで一気に自動化が加速し置換されることが予測されます。結果としてAIを活用する一部の高度スキルを保持する労働者・専門化・経営者といった少数のエリートがより多くを支配する社会へと変化することが予測されます。 (2010年代以降、その傾向が徐々に加速しているようにも見えます)

 これは技術革新に伴う社会構造の変化の結果であり、良い悪いは別として不可逆な現象と思われます。結果として多くの国民は要求スペックを満たすことが出来ず、働きたくても働けない状態(雇用されない状態)に陥ります。必然的に先程のBI議論へと繋がり、社会不安が加速することになります。 

 人が担う労働が減少しAIを活用した自動化が加速した先、失業率が20%を超えることも想像できます。日本は先進国の中でも失業率が低いことで有名ですが、欧州では10%を超える水準で推移していることも多いです。国家は経済活動・各種生産活動に従事しない国民をどのように養うのか?これは未だかつてない問題です。 

 人類は狩猟文明のころから自己の生存に必要な生産活動を自身orコミュニティを通じて役割を担うことで達成してきました。これは古代・中世・近代という歴史において同様です。まさに「働かぬもの食うべからず」です。しかしながら21世紀の現代においてはこの絶対的な原則が覆る可能性があります。 

 働かぬもの食うべからずを覆す政策がBIです。元来、人間は怠惰な生き物であるところBIのような政策が普及することで生産活動に従事するものと従事しないものを分かつ断絶はより強固になると考えられます。 

問い:その結果、社会にどのような変化が訪れるのでしょうか?
  

3. 無用者階級の現実化

 想像ですが再び階級制度・身分制度が誕生する可能性があります。BIに依存し生産的な活動を放棄した人類は実質的には「人」ではなく「モノ」と同列に扱われる可能性が存在します(無用者階級=Useless classの誕生) 

 生存権は保障されるし昔のような奴隷扱いは受けないが、例えば選挙権や意思を表明する権利・発言権を制御されるという劣等市民的な扱いは考えられるかもしれません。義務を果たすものは権利を与え、果たさないものは最低限を与える社会、これが未来の社会像かもしれません。(現在は人類史でも稀な状態で義務を果たさない者にも権利が与えられている状態と言える) 

 基本的人権や平等といった考え方は人類史の中ではごく最近になって登場した概念であり、歴史上は階級・身分に依拠した統治の時代の方が圧倒的に長かったです。過去の身分制と異なる点は生まれに依存しない後天的な実力本位な身分制であることです。幼少期において一定水準の教育が保障された中で、個々人が自身の責任において社会に必要な能力を身につけられるかどうかで生涯の生活・権利が左右される社会。これが後天的能力依存型社会かもしれません。 

以下は私の感じていた問題意識を端的に示してくれた書籍の一節です。 

二十一世紀には、私たちは新しい巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに何の貢献もしない人々だ。この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』

 これまでの社会では労働者は搾取される立場に位置付けられることが多かったが、今後は労働者ではなく社会を構成するのに不要な無用者として位置付けられる可能性があります。ホモ・デウスの一節はそのことを暗示しているように見えました。 

問い:果たして無用者階級の大量発生を回避することは可能だろうか?

 対処療法的なアプローチとして社会人を対象に産業界の要請に沿った即戦力が育成可能な職業専門学校が機能するかもしれません。その時々で産業界において必要なスキルの習得を目指す職業訓練機関であり、目標は産業界に必要な人材供給・無能者階級の発生防止、国家財政の圧迫防止、経済規模の維持などが考えられます。 

 このアプローチは恒久的に社会に必要な高度人材の育成ではなく、需給ギャップの解消と一時的な問題の先送りかもしれませんがサイクルを繰り返すことで一定の成果が期待できると考えられます。少なくても、働きたくても働くことが出来ない無用者階級の一次的な減少には貢献すると思われます。現在、アンダークラスと呼ばれるワーキングプア層・中間層は無用者階級へと変化する可能性が高いです。 

問い:無用者階級が現実となった社会において社会保障・治安維持・税制はどのように変化するのだろうか? 

 自身の生活に必要な財を自身で獲得できない国民が増えることは国家にとって社会保障費の増大を意味します。加えて治安維持により大きなコストを払う必要が生じます。結果として搾取可能な担税力を有するエリート層からこれまで以上に厳しく徴税することが必要になります。仮に無用者層が人口の半数を占めるに至った場合、少数のエリート層が社会全体を養うことになり、所得税負担が8割~9割といった地獄ような水準まで上昇する可能性があります。 

 回避する方法としてはシンガポールのように国民を選別し上級国民のみで構成することが考えられます。市民一人一人が一定レベル以上の能力・財を有し、国家や他人に頼ることなく生活する能力を有している市民のみで構成される社会においてはしわ寄せが発生することはなく過度な負担は回避できます。 

  AI革命後に人間がアルゴリズムよりもうまくこなせる新しい産業・仕事を生み出せるかどうかが鍵となります。ここが上手くいけばバッドシナリオである無用者階級の大量発生を回避できます。過去の技術革新においては人間が機械・システムを凌駕する業務領域が存在しましたが、技術革新の結果そのようなスペースは益々縮小しています。 

■パワーバランスイメージ
アルゴリズム<人間(過去)
アルゴリズム>人間(将来)

 従来の人間は生まれてから①20年学び、②40年働き、③老後生活を過ごすという3部構成でしたが、今後はこのようなモデルは崩壊することになります。技術革新によって急速に知識が陳腐化し、スキルがミスマッチとなります。結果として定期的に(結構な頻度で)学び直し(アップデート)が必要となります。これはかなりの負担です。 

 人が殆ど必要のない社会(経済の維持・発展に多くの人間の労働者を必要としない社会)が訪れた際、国家による「社会保障」という制度は成り立つのでしょうか?経済の維持に無用な人間を養うことに引き続き価値を持ち続けることが出来るのだろうか?という疑念が生じます。

 20世紀は国家の経済発展には大衆が不可欠でした。そのため国家は大衆に医療を提供し、病院を設立し、下水設備やインフラを整備しました。しかしながらこのような社会保障の背景にある大衆の価値が失われた場合にはどうなるのでしょうか?我々は21世紀における存在意義を改めて考え直す必要があります。

4. 投資家の未来

 これまでの歴史を振り返ると一応ではあるが、資本主義は社会主義に勝利したと言えます。しかしながら資本主義が現在の資本主義のまま今後も継続するかは定かではありません。20世紀の資本主義は一般大衆を必要とする資本主義でしたが、技術革新の先に存在する資本主義では多くの経済活動はAIによって人からロボットへと担い手が変化します。 

 このシナリオでは資本主義というフレームワークは維持されつつも、中身はこれまでの資本主義とは大きく異なることが予測されます。福祉国家という概念が社会制度に反映されたのは歴史を振り返るとごく最近であり、過去においては「自己責任」が原則でした。現代では各国ともに程度の差はあれ国民に対して社会保障を通じて福祉を提供しています。 

 本稿では「大きな政府」の是非に関しては触れませんが、現代国家は福祉・社会保障の拡充を通じて膨張してきました。国力の前提が人口(国民)であり、言い換えると労働力の多寡が経済力に直結する時代でありました。

 しかしながら皮肉にも技術革新の結果、無用な市民で溢れる国家が出来上がってしまった場合に、国家は過去と同様に国民を一律に扱い、国家インフラ機能を平等に提供し続けることが出来るだろうか?

 米国におけるトランプの当選は時代の変化に伴う社会構造の変化に取り残された市民の抵抗という見方もできます。中流とは呼べない下層市民の逆襲なのかもしれません。資本主義というシステムは富の拡大に伴い、格差を助長するシステムであることは誰もが認識していることですが、近年は格差拡大が問題視される傾向が高まってきました。 

 格差は2014年にピケティが「21世紀の資本」でr>gを膨大なデータの検証によって示しており客観的な事実です。人は皆、自身がプレイするゲームのルールを知る必要があり、結果に対して文句を言うことは筋違いと言えます。 

 しかしながら昨今は資本主義の前提・ルールが見直されつつあります。GAFAのようなプラットフォーマーの行為規制が強まる一方、各国は保護主義的な政策を推し進め、経済的な支配者の存在を許さない方針に舵を取りつつあります。その中で、富の再分配が政治的にも争点となっています。 

 そもそも人間は生まれながらに不平等であり、それが当たり前です。全員が同じ環境ではなく、生まれながらに富めるものを貧しいものが存在します。これが現実であり、文句を言っても何も始まりません。 

 過去であれば国民=労働力=経済発展、という形で繋がった鎖が現代においては繋がらない以上、別の存在意義が必要となります。生産性のない無能者階級をどのように扱うか、これが未来の国家の課題です。これまでのような社会保障制度を維持しようと考えると間違いなく制度が破綻します。人は生まれながらに平等、という近代思想を見直すタイミングは近いかもしれません。 

 ダーウィンは種の起源にて「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである。」と記しているが、現代は変化への適用をかつてないほど求められており、適用出来ない人類は生存が困難となります。「適者生存」は自然の摂理であり、歪めることが出来ない鉄の掟でもあります。 

 投資家は常に最悪に備える必要があります。仮に技術革新の結果、人間労働力の需要が大きく減少し無能者階級が多数を占める社会になっても生き残る術を模索する必要があります。労働者の絶対数が減少するのであれば「資本家」として振る舞えばいい、というのが一案です。 

 社会構造の変化に伴う雇用の消失というバッドシナリオに備えて、労働者から資本家へのクラスチェンジの準備を進める、というのが現実的なアプローチになろうかと思います。そのうえで社会要請に応じ新しいスキルを習得しつつ柔軟に職業をアップデートすることが不確実な社会で求められる立ち振る舞いとなります。 (結構難易度が高いと思われます)

 とはいえ資本家にジョブチェンジすれば安泰かと言うと若干の不安要素が付き纏います。無用者階級が多数を占めるに至った場合、企業の労働生産性は少数の労働者とAIで収益を稼ぎ出すので高まりますが、「消費者」の絶対数が減少することから経済規模(GDP)が縮小する可能性があります。仮に社会保障としてBIが実施され、一定額が国民に支給されても分厚い中産階級の消費と比べると微々たるものと思われます。 

 生産した財やサービスを売る消費者が存在しない結果、EPSは低下し株価も下がる可能性があります。結果として無用者階級の増加は資産家階級にもマイナスの影響を与えます。資本主義は元来、自己膨張的な仕組みを内包した経済モデルです。常に拡大を目指す宿命にあり、その仕組みが上手く機能することで20世紀は経済・技術が発展しました。その裏には、労働者=生産者=消費者、でもある国民が不可欠でした。 

 しかしながら今後の技術革新次第ではこの方程式は崩れます。投資家はそのような岐路において自らの財を持って選択肢を確保する必要があります。BIは言ってしまうと家畜化への一歩に他なりません。無用者階級とBIが組み合わさることで、ただ餌を与えられることを待つ家畜同様の環境が出来上がります。人類家畜化計画の一歩かもしれません。 

 18世紀以降の歴史は建前や理想を前面に押し出した政治・社会の実現でした。それは貴族には貴族の、平民には平民の役割が存在した時代でもあります。しかしながら今後は何も役割を持たない市民=社会から必要とされない市民、が大量に発生するかもしれません。これは人類史上類を見ない時代です。過去において人口の増加は国力の増加と同義であり、市民=労働者=消費者でもあり、社会を構成する必要不可欠な要素でした。 

 今後は従来の図式が成立しない日が訪れるかもしれません、投資家は資本主義・株式会社制度を前提に資産というオプションを増やしつつ、社会全体のルールが変更された場合への備えも必要です。雇われる側ではなく、一人の独立した経営者として自立してマネタイズする道を模索するべきです。これは決して規模の大きなビジネスである必要はなく、自身と家族が生活できる規模であれば問題ありません。 

 無用者階級の発生=資本主義(株式会社制度)の崩壊ではありませんが、社会システムに何らかの修正が加えられる可能性はゼロではなりません。場合によっては資本家=株主の権利が制御される形で社会システムが再構築されるかもしれません。 

 無用者階級が多数派を形成した場合、政治のポピュリズムは加速します。「パンとサーカス」は家畜化を加速させます。歴史的には200年~300年の間に人権や参政権が拡大しましたが、場合によっては逆回転が発生するのではないかと考えます。権利と義務は表裏一体でありどちらか一方では成立しません。現代は不思議な社会で権利だけが成立している例外的な事例なのかもしれません。 

 世界は未だ定まっておらず様々な政治体制・経済情勢の国が存在します。本稿で示したシナリオは可能性の1つであり選択権は個人に存在します。投資家は自身の信条に従い、主体的に活動する国を選択すれば問題ありません。現代は国境のハードルがこれまでになく低くなっており、居住の自由度が高まっています。

 日本の投資家に一番必要な心構えは日本に固執しないこと、なのかもしれません。投資家は根無し草のごとく戦略的に、①国籍(市民権)のある国、②住所のある国、③ビジネスを行う国、④資産運用を行う国、⑤余暇を過ごす国、を使い分ける必要がありそうです。税制次第では②③④は同一の国を拠点とした方が効率が良いかもしれません。地球単位での最適化については別の機会に触れたいと思います。 

 今回はやや毒を含む内容となりましたが「投資家は最悪のシナリオに備えつつ、楽観論を持って日々を楽しむ存在であるべき」というのが私の持論の1つです。社会の変化に対して受け身で対応するのではなく、主体的に能動的に対応することが、ライフマネジメントには欠かせない視点です。

 

 

 

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