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解読 ボウヤ書店の使命 ⑫-2

 このところよく雨が降る。映画館に向かう途中、道路を歩いているとヒヨドリのピータが住宅の屋上に備え付けられた物干し場の柵に止まり、蕭々と雨に降られながらもピーピピと囀りこちらに呼び掛けた。
 ――ご機嫌だね。
 とでも言いたいのか。
 私も嬉しくなって早足で歩きながら口笛でピーピピと応答する。
 弱い雨降りは嫌いじゃない。
 今日もミニシアターStrangerにて上演される午後一番の回『絶好調』と『健康でさえあれば』を観た。『絶好調』は短編、『健康でさえあれば』は四つのショートで構成された作品だから、合計五つの作品を観たことになる。昨日の『ヨーヨー』も含めると六つ。これだけ観ると、ピエール・エテックス監督の軸となっている思想がなんとなく浮かび上がってくる。『ヨーヨー』ではゴージャスの中にある貧しさと貧困の中にある豊かさ、『絶好調』では様々な不具合があったり過剰に管理されている中でも気の持ちようで絶好調だと思えることが描かれ、どうやら体裁と本質の対比が真骨頂だと言えそうだ。
 また、四つのショートのうちのひとつ『不眠症』は結婚生活における夢と現実を本の中の吸血鬼と実際の吸血鬼(さあ誰かな?)で表し、『シネマトグラフ』はあらゆるものに邪魔されて映画を観ることができない状況から広告だらけの夢のような現実への移行する逆転現象を描き、『健康でさえあれば』は不健康に思えるほどノイズにあふれた都市生活では誰も病気ではないのに医師が処方箋を書く現実をデフォルメして表現し、『もう森へなんか行かない』では都市から森へと移動したところで、ノイズや厄介ごとは着いてくるのがわかる。全てが体裁と本質の入れ替えによる揺さぶりとなっていた。随所にユーモアがあり、かつてのドリフターズのコメディを思い出させる場面もあるし、ひつじのショーンのような軽快さもある。ナンセンスで視覚的なおもしろさは映画だからこその輝きを放ち、映像はすべてアートとしても美しく、ミニシアターでさっと観るお洒落さに申し分ない。最後の『もう森へなんか行かない』では川に流される靴の横を一羽の鴨が泳ぎながらちらりとその靴を観るのだが、
 ――エテックスもその次元を知っていたのだな。
 と思わずにはいられない。つまり、たとえばヒヨドリが雨降りの中、「ご機嫌だね」と声を掛けてくるその次元のことだ。

 今日もゼロコのパフォーマンスがあったが、かなり満席に近付いていたので二度見は遠慮して映画館を出た。
 帰宅してしばらくするとベランダにヒヨドリのピータが来て、口をパクパクさせて見せる。
 ――なんだ? 何か食べたいのか?
 そうではなさそうだ。なんどもパクパクさせる。
 なるほど、
 ――ご飯を食べるのを忘れないように。
 と言いたいのだ。雨の中を羽根を濡らして参上してまで優しいものだ。
 そう気付いた瞬間に、「ピ」と一声鳴いて飛び去る。エテックスも知っているらしいその次元とはこんな感じ。

 さて、解読『ボウヤ書店の使命』の『キャラメルの箱』の続きを復刻する。りんごおばちゃんが泣きわめいてどんな悩み相談をしたのか、それに伴う主人公「僕」と母親の仕草まで読んだどころだ。
 続けよう。

《りんごおばちゃんが
 半狂乱になって泣き叫んだ日には、
 近所中にその声が響き渡ったのだろう。
 夜には大人たちが集まり、
 だらだらと酒などを飲んでは、
 ――あれはいったいどこまで本当かな。
   「あいつ」とやらは色男なんだろうけど
   たぶん、りんごちゃんもいけないのだろうね。
 などと話した。
 つまり、僕は、
 寝転がっても座布団一枚に収まるほどの
 小さな赤ん坊の頃から、
 ――たぶん、りんごちゃんもいけないのだろうね。
 を、月に一回は聞いていたことになる。
 これはひとつの英才教育だ。
  ――つまりはりんごおばちゃんがいけないんだ。
 言葉の意味をよく噛み砕いて考える前に、
 僕はしっかりとそれを覚えた。》

 子供は大人の何気ない会話を聞いて、ひねりも比喩も考えずにそのまま受け取る。赤ん坊だって聞いている。彼らは猛スピードで言葉を覚えるほどの天才状態で寝転がっているのだから。
 主人公「僕」はそのように、それほどは事実に基づいていないだろう大人の感想を、全くの事実として認識してしまったようだ。 


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