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解読 ボウヤ書店の使命 ⑭

 昨日(2023年3月28日)は文化村シネマにて映画『RRR』を観た。

インド制作の映画。いつも通り、何も考えずに、空いている時間に観れるものをと思ってチケットを買ったのだが、大変、驚いた。度肝を抜かれたと言えばよいか。
 あらすじは「1920年頃の英国植民地時代、インド英国軍にさらわれた幼い少女を救うため、兄のビームが立ち上がる」話なのだが、最初から最後までが映像も音楽も完全エンターテイメントの形をとっていながら、これまでにため込んでいた怒りをぶちまけたのかと思わないではいられない。大興行映画をアジアでも作ることができるようになったのだなあとも思う。それから、すごいなあ、インド、ぽかん、空いた口が塞がらない……と、喜んだらいいのか、不安になればいいのかわからない気持ちになった。前作からそうなのかもしれないが、とにかく、私はS.S.ラージャマウリ監督作品を観たのはこれが初めてで心底びっくりしたのだ。
 一昨日観た映画『コンパートメント№6』と昨日観た『RRR』により、ひょっとして情報戦における力関係が映画の世界では均等化し始めているのかもしれないとの思い。ニュースや新聞は「国の方針」に従った「出し物」しかやらないけれど(情報収集者側もニュースや新聞からは真実よりも国の方針を知ることを目的としている)、映画は完全エンターテイメントの形を取りながらも、資金力や文化の力を総動員して「その視点の真実」を発信する力があり、もちろんノンフィクションと言わない限りはフィクションであるが、「その国の側からはこう見えた真実」をアウトプットすることが可能なのだ。もちろんそれだって、ニュースや新聞と同様に意図的に人々に与えるイメージを塗り替えることもできる。たとえば、特定の人種を悪役として描き続けることで、世界中の人々にこの肌の色の人は悪い人々だとの情報を埋め込むこともできてしまう。しかし、そういった「その国の側からはこう見えた真実」を各方面から出力することができれば、結果的に立場は均等化することになる。何を選んで観るのかは鑑賞者に委ねられているけれど。
 なかなか、大変な時代に突入したと実感。

 話は変わって『キャラメルの箱』。前回はりんごおばちゃんが大人たちからりんごおばちゃんも悪いのだと噂されていることを知って、怒って帰ってしまったところまで復刻した。
 さて、続き。

《 りんごおばちゃんが帰って行くのを
  握りこぶしを振り上げたまま、
  あっけにとられたて見送っていた母が、
  改めてこちらに振り返る。
  目を大きく開いて唇を噛んでいた。
  そこで、
  ぐいと振り上げていた握りこぶしを
  さらに高くした。
   ――しまった!
  叩かれるのかと思い、
  かっぱえびせんの袋で素早く頭を隠したが
  叩かれはしなかった。
  でも、叩かれる前に頭を隠した勢いで
  袋からかっぱえびせんが飛び出した。
  それは、ざざあと降り注いで、
  僕の顔やら肩やらを
  あっという間に塩まみれにした。
  つまり、考えようによっては
  叩かれるよりもみじめな状態になったと言える。
  やらかしてしまったみじめな僕を
  そびえ立つ母が見下ろしている。
  一瞬の静寂。
  怒りと妙なおかしさの入り混じった表情。
  笑い出したいのか。
  それとも怒り出したいのか。
  それらが母の中で行ったり来たりしている。
  母の目の前にいるのは
  もう十歳になった僕だ。(猫ではない!)
  母は結局笑いはせず、
  そのまま表情の力が抜けて、
  振り上げた手もゆっくり、
  たらりと下に落とされたのだった。
   ――助かったのか?
  かっぱえびせんをかぶったまま動けなくなっている僕。
  頭の上に乗っていたかっぱえびせんが数本、
  ぱらりぱらりと畳の上に落ちただろう。
  やがて、母の表情の中に
  おかしさの分量が徐々に増したのを見た。
  僕はどうやら助かりそうだと直感した。
  助かったのだ。
  よかった。

  —―よけいなことを言ったらだめ。
  空気の抜けるような声で言った。
  ――それに、かっぱえびせん、もったいない。
    なんてことするの。拾って食べなさい。

  母はプイと僕に背中を見せて、
  ちゃぶ台の湯飲みを片付け始めた。
  その背中が時折震えるように小刻みに揺れている。
  どうやら笑いをこらえているらしい。
  どうして笑うんだろう。
  僕がおかしいからかな。
  それともりんごおばちゃんが?
  母が湯呑を台所で洗う音がする。
  それが終わると居間に戻って来て、
  呆然としている僕の前に立ち、
  きちんと真面目そうな顔を作りこう言った。
  ――なんでもかんでも、本当のことを
    言えばいいわけじゃないのよ。
  唇の隅っこに、
  ほんの少しだけ笑いの残留物が見られる。

  そのとき僕は十歳にして
  こんな風な哲学を得たかもしれない。
   ――なあんだ、やっぱり僕の言ったことは
     本当なんじゃないか。だけど、
     本当のことばっかり言うのが、
     いつでもいいってことじゃないんだなあ。

  とはいえ、
  僕は表向きにはきちんとうなずき、
  畳に落ちたかっぱえびせんを拾ってはかじり、
  拾ってはかじりして、
  自分なりの後始末をつけたのだった。
  こんなことで後始末がつくなら楽勝。》

 シンクロナイズドライビング。怒りとおかしさが入り混じっているのは、昨日観た映画『RRR』と似ている。それにしても、大人は子供に「嘘をつくな」と言ってみたり、「本当のことばかり言うな」と言ってみたり。要は大人にとって都合のいいことだけを言ってほしいのだろう。

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