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星のクラフト 7章(全体つなぎ・肉付け)最後尾にあらすじ掲載

 ローモンドは食事のためにレストランに入った時以外、ほとんど眠っていた。よほど疲れていたのだろう。これまで元気そうに見えたのは、努めて明るくふるまっていたからに違いない。
 私は眠るわけにはいかず、ナビ通りに進んでいく車のハンドルをゆるく握っていた。地球探索用の訓練を受けた時に運転免許を取ってはいたが、地球に来てから運転をしたのはほんの数回でしかない。しかも、その時に地球で乗ることのできた車はまだ自動運転ではなかったので、今に至るまで、まさか自動運転車の運転席に座ることが、こんなに眠気を誘うものとは知らなかった。一体、安全なのかどうなのか。
 ハンバーガー店のドライブスルーを見かけると、急いでナビを停止してコースに侵入し、熱い珈琲だけを買って啜り、眠気をどうにか吹っ飛ばした。
 
 ホテルに到着した時には日暮れ間近で、辺りは透き通った青の色に浸されていた。
「起きて」
 後部座席で横になって眠っているローモンドを揺らす。
「どこ?」
 目を擦って半身だけ起こした。
「ホテル。着いたのよ。ホテルと言っても、中央司令部が用意した、私達専用のホテル。ナビで登録しただけで、予約が取れているはず」
「専用? ホテル?」
 寝ぼけながら、ローモンドは車の窓に顔を近付けた。「わあ、ステキ」
 直ぐに靴を履いて、車の外に出た。あっという間に元気な彼女に戻る。
「確かに、ステキね」
 私も急いで運転席の扉を開け外に出て、ホテルの玄関を見た。
 小さな白い花を付けた植え込みが庭先から扉までを誘導している。建物の大きさはこれまで住んでいた家と同じくらいだが、白いタイルの壁や青い瓦屋根、アーチ型の硝子窓は艶やかに磨き抜かれ、可愛らしく清潔に見えた。
 まもなく玄関扉が開き、中から老人が一人現れた。ポロシャツとデニム。姿勢がよく、もしも髪が真っ白でなければ老人とは思えない。その姿勢では足のどこも悪くなさそうに見えただが、杖を持って立っていた。
 車の横でまだ呆然と立ち尽くしている二人のところまで来て
「おいでになりましたか。お嬢様から連絡を受けています」
 私の手を取って握りしめた。「どうぞ、中へ。夕食の準備をしておりますよ」目を細める。
「やったあ」
 ローモンドは頬を膨らませて笑った。眠っていただけなのに、もうお腹が空いたのだろうか。
 車を指定の場所に駐車し直し、必要な荷物だけを持って、私達二人はホテルの中に入った。
 客はローモンドと私しかいない。
「一日に一組しか泊まれないしくみですから」
 老人は二人が宿泊する部屋へと向かう廊下を歩きながら、他には誰もいない理由について説明した。「一日に一組というか、普段はほとんど誰も来ません。ホテルというのは名目だけのものですし」
 部屋に入ると、ローモンドが「あっ」と小さく声を上げた。
「どうかなさいましたか」
 老人がローモンドを見る。ローモンドは私をちらりと見てからすっかり黙る。「それはそうと、この方は?」
「彼女は知り合いの地球人から預かっている子供です」
 私はローモンドが何かを言い始める前に素早く答えた。
「お嬢様からは聞いていませんが――」
「内緒にしておいてもらえるかしら」
 ローモンドはもう髪を切って地球人風の服装に着替えたから、モエリスの予備だった少女には見えないだろう。髪は色まで染めている。
「どうして内緒に?」
「めんどうだから」
 わざとクールを装って、投げ捨てるように言った。そうした方が、もしも上部に告げ口された場合でも、私を良く知るお嬢様にとって大した問題ではないと思わせる力があるはずだから。「彼女の名前はカオリ。ほとんど言葉をしゃべれないのよ」
「そんなお子さんを預かると大変でしょう」
 老人は顎を斜めに引いて右目で私を突き刺すように見た。疑っているのだろう。
「いいえ。全然。預かっているだけなの。勝手にお風呂に入ったり、食事をしたりするから。彼女の母親はシングルマザーで、しかも地方を点々とする歌手なのよ。私、地球の仕事についてはよく知らなかったから、そういうのが普通だと思ってた。でも、珍しいのかもね。勉強はスマホでするらしいわよ」
 少し早口になってしまう。嘘というのは、悪いことをしているわけではない場合でも後ろめたいものだ。そして必要以上の情報を付け加えてしまう。
「そういう仕事もないことはないだろうけれど、珍しいといえば珍しい」
 それ以上疑うことを止めたのか、老人は表情を緩めて肩をすくめた。「休んだら、食堂に来てください。夕食の支度をしておきますから」
 タオルや石鹸類について説明をした後、老人は部屋の鍵を私に手渡し、部屋を後にした。

 夕食には近くの川で獲れた魚と山で採れた山菜、マッシュルームのスープ、生ハムとポテトの乗ったサラダ、フルーツ、パンが用意されていた。
「豪華ね。専属のシェフが居るのかしら」
 私はさっそくマッシュルームのスープを一匙口に入れた。
 さきほどの老人が一人で給仕をしてくれる。厨房に誰かが居る気配はなかった。
「全部私が作りました」
 独り言を聞いていたのか、老人がそう答え、私達のグラスに水を注ぎ足してくれる。
「シェフなの?」
「もともとはお嬢様のお城で食事を担当させて頂いておりました。それから、地球に派遣されたのです。こういったホテルがいくつか必要になるということで」
 ローモンドはあまり話ができない設定になっていることを忘れず、黙ってサラダを突っついている。
「どうりで、なにもかもが一流の料理だわ」
 川魚のフリットはカリっと仕上がっていた。掛けてあるトマトのソースの香りも品がいい。
「ところで――」
 老人はローモンドをちらりと見た後、私の耳に口を近付けた。「カオリさんは地球外から来た我々のことを知っているのですか?」
 私は咳き込みそうになる。そう質問された場合に、どう答えるかを考えていなかった。
「いいえ」
 ひとまずそう言う。
「じゃあ、地球に派遣されたとか、そういう話題はマズいのでは?」
 まだ耳元でひそひそした声だった。
「大丈夫よ」
 動揺を隠して平然と答えた。
「本当に?」
 疑いのトーンで言い、さきほどと同じように顎を引き、斜め下から右目を突き刺すように私の顔を伺った。
「ええ」
 バレそうな嘘を重ねないために、本件に関しては短く返事するだけにする。
「それより、どこのホテルでもこんなに美味しい料理が食べられるのかしら」
 山菜のソテーを口に放り込む。話題を変えたいのもあるし、実際に聞いてみたいのもある。
「それはもちろん。全員、お嬢様のお城で厨房を担当していた者が仕切っているはずですから」
 耳元で囁くのを止めて、背筋を伸ばして得意気に言う。
「それなら、早々と目的地に着くよりも、わざとゆっくり進めて、可能な限りのホテルに泊まって行った方が楽しそうだけど」
「仰る通りです。でも、お嬢様の話では、なるべく早く、例の村に辿り着いて欲しいようでしたよ」
「それね、何か、知らない? どういうことなのか」
 村ひとつ分、人間がいなくなっている。建物ひとつが崩壊している。それがどこなのか、どうしてそんなことになったのか、調べるのがミッションだ。そしてそのことが、私の故郷であるお嬢様のいる星で管理していた宇宙の全記憶が書き込まれた装置の破壊事故につながっているかもしれないのだ。
「私の方では何も」
 老人は首を横に振った。
「ところで、お名前は?」
 老人の名前をまだ聞いていなかった。
「シェフでいいですよ。名前なんて、ございませんから」
 深く刻み込まれた表情皺をもっと深くして微笑む。
「それでは、失礼なのではないかしら」
「いいえ、どのホテルでも、いっそシェフという名前のものがお迎えします。それが我々のミッションですから」
 シェフはそう言うと、深々と頭を下げて奥に入って行った。
 すっかり夕食を平らげると、部屋に戻ってベッドに寝転がった。
「ローラン、私が来ることは知られていないはずなのに、ちゃんと二人分のシーツやパジャマが用意されてるって変じゃない?」
 ローモンドが言う。
「車に乗り込んだから、私の他にもう一人居ることはバレているはずよ。盗聴までされているかどうかはわからないけど、カオリはカオリだと言い張れば、向こうでも調べようがないはず。気にしなくて大丈夫」
 もちろん、既にローモンドがローモンドであることがバレている可能性もある。だからと言って、それを追及するためにわざわざ遠い星から追いかけても来ないだろう。お嬢様はとにかく、人がいなくなった村について調べたいのだから。
「あ、鳥がいる!」
 ローモンドは窓に駆け寄った。
「こんな時間に窓辺に来るなんて珍しいわね」
 野鳥は夕方以降は誰にもバレないように工夫している巣に戻るはずだ。
「綺麗な鳥。クリーム色よ」
 ローモンドはガラスに鼻をくっつけて、鳥が止まっている窓枠を見た。クリーム色の鳥は逃げもしない。
「このホテルで飼っているのかしら。慣れていそう」
 それでも、ローモンドが窓の鍵を開けようとすると、鳥は忙しそうに羽根をはばたかせて庭に植えられた樹木の中に消えていった。
「ローラン、樹木の中に居る鳥が光ってる」
 ローモンドは再び鼻先を硝子窓に押し付けて外を見ていた。
「ほんとだ。蛍光灯みたいね」
 樹木の中に眠るための巣があるわけではないのだろうか。むしろこちらに存在を主張するかのように光っている。
「あの鳥は、地球の鳥ではないわね」
 ローモンドがそう言葉を発すると、硝子窓が息で白く曇った。
「ひょっとして、青い実の成る星でも、あの鳥を見たとことがあるの?」
「そうじゃないけど、懐かしい気持ちがする」
 ローモンドは両掌を硝子に押し当てた。
「どこかで知っているような?」
「会ったことがあるような感じ」
「やっぱり、青い実の成る星の湖で一緒に遊んでいた鳥なんじゃないの」
「あんな色のは見た事がないけれど、地球ではクリーム色に光っているのかもしれない」
 そうやって見ていると、鳥は樹木の天辺まで飛び立ち、やがて夜空に消えていった。
「ああ、いなくなっちゃった」
 残念そうに、ローモンドは私の顔を見た。
「きっと、行く先々でも会えるわよ」
「本当に?」
「そんな気がする」
「だといいな」
 ローモンドは安心したのか、目を細めて微笑んだ。
 私たちはシャワーを浴び、パジャマに着替えてから、明日どうするかを話し始めた。もしも一日中車を走らせれば、明日中にもお嬢様が探している村に到達するかもしれない。少なくとも、その周辺までは接近することができるだろう。
「目的の場所、意外と、近くにあったんだね」
 ローモンドは車から持ち込んでおいた地図を見ながら言う。
「既に、お嬢様から送られてきた資料をもとにある程度場所は特定してある。そもそも、最初から、だいたい、この辺りだろうと地図に目星を付けてあるし」
「およその位置まで辿り着いても、ピンポイントの位置を探索するのが難しそう」
「その通り。辺りに私達専用のホテルは一軒しかないから、そこにしばらく泊まって探すしかない。まずは資料の写真で見た崩落した建物を探す。それは目立つだろうし」
「すぐに見つかりそうでもあるし、何年かかっても見つからなさそうでもある」
 ローモンドは気難しそうに眉を寄せる。「一日で辿り着くべきかどうかは、明日、目が覚めてから決めない?」
 ローモンドの提案に、私もそれがいいと思った。
「もう眠いの?」
「車の中で眠り過ぎたからむしろ眠くない」
 決然として言い、ローモンドは急に立ち上がる。
「どうしたの」
「さっき、食堂から帰って来る時、廊下に本棚があるのを見つけたの。本がたくさんあった」
「読みたい?」
 乳母から字を習ったと言ったが、地球の文字を楽々と読めるのだろうか。
「私、おばあちゃまから文字を教わっただけだから、地球の文字はほとんど読めないのだけど、本棚をちらっと見た時、背表紙に書いてあるタイトルが分かる本が一冊だけあった。あれは、おまあちゃまが教えてくれた文字のうちのひとつ。いくつか習ったのよ。そして、あれは他の星の文字だった」
「それは気になるわね」
 私も立ち上がる。すぐにでも本棚を見てみたい。
「気になるでしょう? もしも明日出発することになってもいいように、今のうちにその本をここに持ってきたいの」
「ここに持ってくる? 今夜中に読むのではなく?」
「かなり分厚かった。一晩では読めない」
「じゃあ、借りて持って行くってこと?」
 私が言うと、ローモンドはうなずいた。
「黙って持って行っても叱られはしないと思う。本はたくさんあったから見つからないだろうし、さっきのシェフは私達の味方だから、きっと大丈夫。私のことはともかく、少なくともローランの味方に違いないから」
 確信しているようだった。
「私もそうは思うけれど――」
「大丈夫よ。私、もしもその本が読めて、書いてある内容をローランに伝えることができたら、すごく役に立てる気がする」
 ローモンドの表情は輝いていた。

 薄暗い廊下の突き当りに本棚はあり、写真集や民話、紀行などがびっしりと置いてあった。床から天井までの高さがある。小さな一人用のソファもある。古い本と部屋の角が醸し出す陰の湿った匂いが立ち込めていた。
「薄暗いのに、よく気付いたわね」
 食堂から二人の部屋までの通路には明るい蛍光灯があるが、そこから先の突き当りに明かりはひとつもない。二人の部屋の前の蛍光灯によって、わずかに見える程度の光量だ。
「私、目がいいの。たぶん、他の星の人たちよりも」
 ローモンドは鼻を膨らませた。
「たしかに」
 私はむしろ呆れてしまうほどだった。
「青い実の成る星で湖に行き、鳥達と遊んでいる時に、他の星から観光の人たちがやって来たことがあったけれど、樹木に居る鳥は全く見えないようだった。鳥の声がしてるけど、鳥はいないわね、なんて言ってたし」
「ローモンドには見えたのね」
 私が言うと、大きく頷く。
「ところで、その、おばあちゃまから習った不思議な文字の本って、どれ?」
「これよ」
 ローモンドはしゃがみ込んで本を引き出す。床から天井まである本棚の、最も下、最も左側にあった。確かに分厚くて存在感はあるが、これが遠くから見えたのは驚きだった。すっかり古びていて、紙は茶色に変色し、文字の色もわずかに薄くなっている。
「それにしても、この本のあることまで、よく見えたわね」
「自分でもそう思う。ほんとに見えたのかな」
 肩をすくめる。「直観かも」
 本の表紙には、髪の長い男の絵が描いてあった。そして――
「あ、これ、さっきの鳥に似ている」
 ローモンドが表紙の中に描かれた鳥を指した。
 見ると、白い鳥が男の肩上に乗っている。さきほど、窓辺に訪れたクリーム色の鳥に似ていなくもない。
「それにしても、これ、出版物じゃなさそうね。手書きじゃないかな」
 私は眼を近付けて絵を見た。黒いインクは印刷ではなさそうだった。
「中も開いてみて」
 やはりそうだ。中の文字も手書きだ。
「ところで、ローモンド、これ、表紙のタイトル、なんて書いてあるの?」
「この文字は《時間》を表し、これは《場所》、そして、これは――、《動く》かな。そして、《教える》《本》だ」
「時空間移動手引書、みたいなものかしら」
 不思議な文字。柔らかな曲線と直線、点や幾何学模様で作られた文字は全く見たことがないものだった。地球探索要員養成所で学ぶことは膨大で、文字や言語に関しても多種多様なものを教え込まれたが、こんな文字は見たことがない。つまり、私が学んだのは地球のことばかりで、それ以外の星については全くの無知なのだ。
「時空間移動手引書、か。そう言えば、おばあちゃまがそんな話をしていたような気がする」
 ローモンドは頬をピンク色に染めた。「あっ。――」
「ちょっと待って」
 何かを思い出し、すぐにでも話始めようとするローモンドを制した。「とりあえず、この本は部屋に持って行きましょう。そして、そこでゆっくりと頁を開きましょう」
 ローモンドは口を閉じ、うなずく。
「そうだ、他の本も借りて行こう」
 ローモンドはいくつか本を選んだ。「その本だけを持って行くよりも、いろいろ読んでみたいと思って選んだ中に、偶然その本も入っていたって方が、安全な気がする。誰かになんだか、叱られそうな時に」
「わかってきたのね!」
 どうやらローモンドも、地球探索の仕方を理解し始めたようだ。悪いことをしていなかったとしても、安全策は常に意識しておかなくてはいけない。

 その本の大きさは、ベッドサイドに置いてあるデスクの物差しで測ったところ、縦22㎝、横16㎝、厚さ4㎝だった。重さを測る器具があれば、かなりの重さのあることがわかったに違いない。
「ずいぶん、どっしりしているわね」
 私たちは並んでベッドに腰かけた。
「頁数がたくさんあるけれど、理由はそれだけでもなさそう。古くて、紙が湿度を含んでしまったのかな」
 ローモンドは本を両手で持ち、頭の上に掲げる。
「どれくらい古いのかしら」
 私は発行年を調べたくて、巻末あたりの頁を繰った。しかし何もわからない。文字だけではなく、数字すら見分けることができない。頁番号も打っていないので、そこから予測することもできなかった。
「発行年は書かれてなさそう」
 ローモンドも同じように確かめたが、記載してある箇所は見つからないようだった。
「どれくらい、読めそう?」
 びっしりと不思議な文字が書いてある。ローモンドは乳母のおばあちゃまからこの文字を学んだと言うが、これほどの長文が読めるとは思えない。地球なら小学校に上がったばかりの年齢だし、つい最近まで湖で鳥と遊んでいたはずなのだから。
「時間が掛かっても、全部読めると思う」
 予想に反して、ローモンドは自信たっぷりだった。
「そんなに熱心にこの文字について教えてもらったの?」
「私はほとんど湖で遊んでいたけれど、後は様々な星の文字をほんの少しと、この文字だけを教わったのだから、すっかり身に付いているはず。それに――」
 ローモンドは大きく息を吸い込んだ。
「それに?」
「この本、見覚えがある」
 私の目をまっすぐに見た。
「青い実の成る星にあったってこと?」
「そう」
「もしかして、この文字、あの星の文字なのかしら」
「それは違う」
「じゃあ、どこでこの本を見たのか、教えてくれる?」
「おばあちゃまが持っていたはず。私を育ててくれる部屋には、おばあちゃま専用の衝立だけで区切られた小さな個室もあって、私が眠っている時はそこで本を読んでいるようだった。そこを覗いてみると、デスクの横に本棚があり、この本があった」
 ローモンドは本の頁をそっと開いた。
「青実星ではそこら中でこの本が売られているのかしら」
「それはわからない。今思い出したのは、夜中に目を覚ました時、おばあちゃまの個室に明かりが点いていることがあったの。それで、そっと衝立ごしに近付いておばあちゃまを見たら、この本を読んでいた。この本だけは分厚いし、文字が特殊だからすぐにわかったのよ。そして、おばあちゃまは読みながらノートに何かを書いていた」
「翻訳していたのかしら」
「そうだと思う。というか、絶対にそう」
 ローモンドは本をパタンと綴じた。
「どうしてそう言い切れる?」
「後で、翻訳したものを読み聞かせてくれたから。なんだかノートを見ながら物語を読み聞かせてくれた時があったから、おばあちゃまが作ったのって聞いたら、他の星の物語を訳したのだと言っていたのだし」
 ローモンドは懐かしそうに中空をぼんやりと見た。
「じゃあ、ローモンドはこの本の中身を全部、もうわかってる?」
「それは、無理。おばあちゃまの翻訳もまだ全て終わっていなかったから。終わっていないけれど、できた分ずつ読んでくれた。私に次の運命が押し寄せる前に、できるだけ話して聞かせてくれたのだと思う。そして、この文字の読み方も教えてくれたのよ」
「つまりおばあちゃまは、この本について、なるべくたくさん、ローモンドに伝えたかったのね」
 私の言葉に、ローモンドは「そうだと思う」と大きく頷いた。

 ローモンドは少し思い詰めたような表情をした。
 「しばらく一人になりたい。おばあちゃまから聞いたことを思い出してみる」
 私に背を向け、ベッドの中に潜り込んだ。
 ローモンドはおばあちゃまとお別れの言葉を交わすこともできないままに、地球に来てしまったのだ。気丈に振舞っていたとしても、心中では様々な思いが湧いてくるに違いない。まして、偶然にも、そのおばあちゃまに読み聞かせてもらった本とここで遭遇したのだ。
 私は窓辺に座り、手に入れたばかりの重量感たっぷりの本を膝に乗せ、一枚ずつ頁を捲っていった。何が書かれているのかは全くわからない。膠で綴じられているのか、開く際に独特の擦れる音がする。おそらく古いものだが、ほとんど誰も読んでいないのか、内側の頁に書かれた文字は全く色褪せてはいなかった。
 三十分もそうしていると、ローモンドは突然むっくりと起き上がって、
「思い出したことから順に話してみる」
 と宣言した。
「まず、一番はっきりしていることから言うと、本はどうしてこのような形をしているのかについての説明のあったこと。この本だけではない、あらゆる本が、なぜこのような形をしているのか。聞いていた時には、物語上の作り話だと思ってた。もちろん、そうなのかもしれないけれど、この本には物語の部分と、説明の部分があったから――」
「本はどうしてこのような形をしているのかは、物語の部分ではなく、説明の部分に書いてあった気がするのね」
 私は急いで窓辺からベッドのローモンドの横に移った。
「説明の部分は物語の流れとは関係のないことだから、今、そう考えているだけだけど」
 ローモンドは少し自信なさげに言う。遠い記憶をなんとかして探っているのだから、あまり厳密に追い詰めない方がいいだろう。
「そして本の形とは、本の物質的な形のこと? 紙があり、綴じてあるといった」
 それでも、つい先を急いで問い詰めてしまう。私は重い本を膝から少し上に掲げ、頁を開いて見せた。
 ローモンドはこくんと頷く。
「物語の書き方とか、説明の仕方といった内容ではなく、この本の形そのもの。スマホやパソコンでは中身の文字が画面上に並び、それをスクロールして読んでいくけれど、そのことじゃない。表紙と頁があり、背中で綴じられているその本の形よ」
 ローモンドは私の持っている本を指した。
「で、本はどうしてこのような形をしているの?」
 彼女が最初に思い出し、最初に説明したいことだと言うからには、きっと大事なことなのだろう。
「ちょっと貸して」
 ローモンドは私の手から本を取り、膝の上に乗せ、慎重に真ん中の頁を開いた。メリメリと剥がれる音がする。それから重そうに持ち上げ、
「こうして、逆さまにする」
 本を真ん中で開いたまま、固い表紙を上に、中の頁の部分を下に向けた。「何に見える?」
「山?」
「自然な山にはこんなトンネルなんかない」
「じゃあ、屋根」
「屋根だけが浮かんでいるってことはあまりない」
「んー、焦らさないで、答を言ってよ」
 頁を開いて逆さまにした本を見て、的確な何かを連想するのは難しい。
「これはね、鳥」
 ローモンドは重そうに片手で本を持ち、もう片方の手で固い表紙を翼のように動かした。
「なるほどね」
 確かにそうだ。
 ローモンドは一旦本を閉じて膝の上に置き、頁を繰って、中に仕込まれている細いリボン上の栞を探し出した。
「これは尾羽根」
 焦げ茶色のリボンをつまんで私に見せた。「本来は本の真ん中に、この栞と同じようにペンが挟まれている。書いた人のペンであり、読む人が何かを書き込むペン。それが嘴となるの。おばあちゃんの読み聞かせでは、そう言っていた」
「そう聞いてしまうと、もはやそうとしか思えないほど、その通りだわ」
 私は感動してしまった。
「そして、このことが何を暗示しているのか」
 ローモンドは眼を輝かせ、真剣な表情で私をじっと見た。
「何を、暗示しているの?」
「本とは、鳥そのものなのよ」
 もっと強く私の目を見据える。目を見ているのだけれど、それよりも遠くを見つめているかのようでもある。
「物語を運ぶ伝えるという意味で? 枝から枝へと移動する」
「それもある」
「他には?」
「鳥が、人々に書かせたもの。それが本なのよ。人が考えて書いたというよりも。もちろん、この本の作者が言うには、ってことだけど」
 そこまで言い終えると、少し緊張感がほぐれたらしく、目を壁の方に戻してゆるく微笑んだ。
「じゃあ、この本に使われている文字は、鳥の文字かもしれないわね」
 私が言うと、
「それはそうなのかも。ひょっとしたら鳥達の星があり、これはそこからもたらされた本だとしたら、中の文字は鳥達の文字とも言えなくはない。でも、おばあちゃまが読んでくれた範囲では、そんな説明はなかったけれど」
 ローモンドはできるだけ正確に伝えようとしていた。
「おばあちゃまはどこからこの本を手に入れたのかしら」
 私は不思議だった。
 お嬢様やガードマンの居る中央司令部で、この本の存在について語られているのを聞いたことはない。お嬢様のお城のある星と青実星は隣接してはいるものの地続きではないから、お嬢様たちが青実星のことを何もかも把握しているわけでもないが、宇宙船を介して頻繁に行き来する。青実星は中央司令部が地球との中継のために建設した人工衛星であり、そこにあるものをお嬢様たちが把握していないなんてことがあり得るのだろうか。
「尋ねてみたことはある。たしか、この本は飛んできたって言ったと思う。なんだか嘘くさいと思っていた。でも、さっき言ったみたいに、本は鳥そのものなのだとしたら、飛んできたというのも嘘じゃないのかもしれない」
 ローモンドは本の表紙を愛しそうに撫でた。
「冗談ではないにしても、飛んできたってのは単なる比喩かもしれない」
「ヒユって?」
「たとえのこと。つまり、あたかも飛んできたかのように、偶然、たとえばベランダにあった、とか」
 そう言うと、ローモンドは「ふうん」と言った後、首を傾げて天井を見ながら何かを思い出そうとしているようだった。
「おばあちゃまと過ごしたお部屋には他に誰も来なかったの?」
「私が居る時にはほとんど来なかった。でも、鳥の形に乗って湖に行っている間のことはわからない。その時におばあちゃまが何をしていたかについては知らないし」
「それにしても、この本はどうしてこのホテルにあるのかしら」
 私も首を傾げる。「もしも、この本が中央司令部とは無関係なまま、青実星にいるローモンドのおばあちゃまのところにもたらされたのだとしたら、中央司令部と関係の深いホテルにあるのは変じゃない?」
「それは、そうね」
 ローモンドは髪を揺らしながら何度もうなずいた。
「思い切って、シェフに聞いてみない?」
「私もそれがいいと思う。このままこっそり持って行きたいと思ったけど、ここに書かれてあることを読み取っていくのは大変そうだし、それよりも、この本がどこからもたらされたかを確かめた方がよさそう。それで、もしも持って行っても構わないと言ったら、持って行こう」
 ローモンドはいつだって前向きだ。
 私たちはさっそく本を持って、厨房横の部屋に向かった。シェフからは「何かあればそこにいるから声を掛けてくれ」と言われていた。
 舞台裏らしく簡素に設えられている扉をノックすると、中からシェフが顔を出した。
「どうかされました? 何か不具合でも?」
 食事の後片付けをしたばかりのなのか、まだ前掛けを着けたままだった。
「そうじゃないんです。ちょっと聞きたいことがあって」
「なんでしょう」
 前掛けを外して壁のフックに掛け、部屋の外に出てきた。「こみ入ったことでしょうか。もしそうなら、廊下で立ち話もなんですから、食堂のテーブルにでも行きますか」
 
「実はこれのことをおたずねしたくて」
 私は手に持っていた本をテーブルの上に置いた。
「ああ、その本ね。よく見つけましたね。本棚の一番下の奥に入っていたと思いますが。どちらが発見されたのですか。ローランさん? それともカオリさん?」

 ――そうだ、ローモンドはカオリだ。間違えないように。

「カオリが本棚を見つけて、それでなんとなく」
 カオリは話ができないことになっている。だから、横でただ黙って座っているしかない。忘れて何かしゃべり出したらどうしよう。
《ローラン、大丈夫よ、わかってる。カオリの時は何も話さないから》
 よかった。彼女とはテレパシーでも意思疎通ができることを思い出した。
「で、その本がどうかしましたか?」
 シェフは表紙にそっと指先で触れる。
「これ、変わった文字ですね」
「ああ、読めないでしょう? 誰かが置いていったのか、気付いたら本棚に入っていてね」
「宿泊客が置いていったのでしょうか」
「たぶん、そうだと思うのだけど、お嬢様に問い合わせても、本を忘れたとの報告はないとかで、そのまま本棚に置いてます。それがどうかしましたか?」
《絵が綺麗、って言って》
 ローモンドがテレパシーで言う。
「絵が、綺麗」
 突然のことで戸惑いながら、ローモンドの言葉に従った。
「ああ、そうですね。表紙の絵のことですね。中にも挿絵がありますが、それがどうかしましたか」
《借りられないかって、聞いてみて》
「お借りすることはできますか」
「読むのですか。そんな文字、読めないでしょう」
《絵が綺麗だから、長距離ドライブの慰めに、って言って》
「絵が綺麗だから、長距離ドライブの慰めに」
 ローモンドの言葉通りに言う。
「別に構いませんよ。どうせ持ち主もわからないことですし、お嬢様も忘れ物には関心がないようでしたから」
《よっしゃ》
「よっしゃ。あっ」
 妙なところまで繰り返してしまった。
「話はそれだけ?」
 シェフは拍子抜けしたようだった。この本のことを何も重要視していないのだろう。
「それだけです」
 私が言うと、
「じゃ、おやすみなさい。ところで、明日にはもう発たれますか」
《そうしよう》
「そうします」
 ローモンドの言葉に従った。

 翌朝、朝食を済ませると直ぐに車に乗り込んだ。シェフはそんなに急がなくてもと寂しそうに言ったが、なるべく早く現場に着きたいからと、最後の珈琲も断って旅立つことになった。
「珈琲くらい頂けばよかったけど」
 私はナビに次の目的地をセットしながら呟いた。
「食事の後の飲み物で充分」
 実のところ、ローモンドが早く出発したがったのだ。「シェフの気が変わって、本を貸したくないと言い出したら困る」
 なるほど、それが気がかりだったのか。
「その本が気に入っているの?」
「だって、おばあちゃまとの思い出だから」
 ローモンドは後部座席で本を胸に抱きしめている。
「おばあちゃまは今何をされているのかしら」
「きっと、他の子供の世話をしている。私の前にも、何人もの子供を育てたって言ってたから」
「いつから乳母の仕事をしているのかしらね、そのおばあちゃまって」
「ずっと若いころからこうしているって言ってた」
「みんな地球に来る子供だちだったのかしら。あるいはその――」
 言い淀む。
「予備、でしょ?」
 ローモンドはくすくす笑う。
「ごめんなさい。そんな言い方して」
「いいのよ、本当のことなんだから」
「いずれにしても、おばあちゃまが育てた子供が大人になって、地球やその他の星に居る可能性はあるわね」
「だとしたら?」
「この本の存在を知っている可能性がある」
「どうかなあ。私がまだおばあちゃまのそばに居た頃ですら、都度翻訳し、読み聞かせてくれていたのだから、手に入ったばっかりだったのかもしれないけれど」
「それはそうか」
 私は車を発進させる。後は自動運転を見守るばかりだ。
「今日のうちに現地に行く?」
「いいえ。もう少しゆっくりと旅をするつもり。お昼頃に到着するホテルに入り、辺りを散策したり、その本を読み進めたりしましょう」
「なんだかローランらしくない」
「そうかな」
「シェフにはお嬢様の希望にできるだけ沿うように、早く当地に着きたいって言っていたのに」
「ローモンドが早く出発したいって言ったからよ。その理由としてひねり出したのよ」
「そうだった」
 バックミラーに、ローモンドのお茶目な笑顔が映る。楽しい気分になる。もしも一人っきりでこの任務を背負ったのだったら、ホテルなんかに一度も泊まることなく、当地まで一気に爆走していたかもしれない。
 これまでの私は合理的でしかなかった。ローモンドが私の心の部屋に初めて入った時、部屋には桃のレアチーズケーキくらいしかなかったのだから。ローモンドがそこで見た通り、確かにそう。私の余裕はそれくらいしかなかった。時々、あのお気に入りのカフェに行って、なるべくならJBLの横で音楽を聴きながら、美味しいケーキと珈琲を楽しむ。その時間だけが、唯一の任務外の時間だった。そんなにたくさん任務があったわけでもないのに、私自身の中に、物事をゆっくりと進めるといった発想がなかった。なんだってできるだけ早く終わらせ、できるだけ部屋に長くこもってひたすらに本を読む。それも、地球に関することが書かれた小説ばかりで、どれもこれも誰かが無残に殺害されてしまうミステリーばかりだった。地球と接触する前に、私は地球の人間たちの構造を知りたいと思ってそうしていたのだけれど、よく考えてみれば、あれが本当にの地球の人間構造だったかは疑わしい。
「ローラン、本の最初に、詩のような、奇妙なことが書いてある」
 ローモンドは膝に乗せた本から顔を上げた。
「その複雑な文字が読めたのね」
 バックミラーでローモンドの顔をちらりと見る。ローモンドもミラーを見て、小さくうなずく。
「そして、この本の最初の行、ここはおばあちゃまは読まなかった。詩のような短い文」
「エピグラフね。エピグラフまで読んで聞かせる人はあまりいないわ。相手が子供だった場合は特に。ところで、なんて書いてある?」
「まずはこうなっていて、△|:|◇:」
 ローモンドは記号を指で描く。
「それはわからないのね」
 ローモンドは私の言葉にうなずく。
「そして、《わたしは あなたの 愛を 信じます、これを わたしの 最後の 言葉と させてください。》となっている」
「すてきな言葉ね」
「そうだね」
 ローモンドは神妙な顔つきをして本を閉じた。「最初なのに、最後の言葉だなんて」
「エピグラフは別の本や映画、出来事などとの結びつきを示すための引用なのよ」
「インヨウって?」
「別の本などの言葉を部分的に引っ張り出して、用いること」
「じゃあ、この言葉は何かの本の言葉?」
「その本が通常の本と同じルールを使っているのなら。だけど――」
「これはいったいなんの本だろう」
 私たちは両方とも、初めて見る言葉だった。

 しばらくの間、ローモンドは本を読もうとしていたが、すぐに「車の中で本を読むことは無理だ」と言った。
「頭が痛くなる」
 本をシートに投げ出し、目をつぶってだらりとしている。
「車酔いね」
「鳥の形に乗り慣れているから、大丈夫だと思っていたのだけど」
 眉間を寄せて、辛そうだ。
「きっと、揺れ方が異なるものだから」
 私は後部座席の窓を少し開けた。
 高速道路に乗るまでは町中の道路を走る。住宅街を抜けると、道路の両端にプラタナスが延々と植えられている国道に出た。通学自転車の横をすり抜け、小学生たちが渡る横断歩道で停止する。まだ自動運転に慣れない私は、機械がこんなに細かな状況にも対応できることに驚いてしまう。
「風に吹かれると気分がいい」
 ローモンドはどうやら本格的な車酔いに至らずに済んだらしい。黒く染めた短い髪がさわさわと揺れている。
「ホテルに着いてから、ゆっくりと本を読めばいい。今はドライブを楽しんで」
 私はバックミラーに向かって言った。
 やがて、またもやローモンドは眠ってしまった。車の揺れは眠気を誘う。

 一時間ほど高速道路を走ると、直ぐに国道に降りた。そして、正午になる前に目的の宿泊施設に到着。
「ローモンド、もう着いたわよ」
 一日目と同じように、私は彼女を起こすことになった。車の中で、よくもあんなに熟睡できるものだと感心する。
「早いね」
 薄目を開けて、眩しそうに窓の外を見た。
「あれが今日泊まるところ」
 私が指すと
「へえ、昨日とは全く違う」
 少し残念そうに肩をすくめる。
「民宿じゃないかしら。民泊というのかもしれないけれど」
「ちゃんと予約とれているのかな」
「ナビに登録すれば、自動的に予約されているはずよ。お嬢様からもらった仕様書にはそう書いてあった」
 宿泊施設は古い木造建築で、広々とした農地の真ん中にぽつねんと存在していた。農地と言っても、見渡せる範囲に作業をしている人はいない。トウモロコシかサトウキビを思わせる葉がどこまでも茂っている。
 私は宿泊施設の庭に車を停め、エンジンを切り、外に降り立った。
 ローモンドもまだ眠そうに眼を擦りながら、外に出て車の横に降り立った。
「誰も出てこないね」
「確かに」
 昨日のホテルでは、着いたらすぐにシェフが外に出てきた。
「大丈夫かな」
 ローモンドは不安そうに私を見る。
「大丈夫よ。車がナビの通りに私達を運んできたのだから」
 努めて明るく言ってはみたが、木造の建物の周りに雑草が生えているのを見ると不安にならずには居られなかった。
「とりあえず、玄関の扉を開けよう」
 大丈夫かなと言ったのはローモンドだったが、すぐに明るさを取り戻し、私より先に歩き出している。急いで後を追い、二人で玄関に立った。
 小さな呼鈴があり、それを押してみる。
 返事はない。
 もう一度押してみる。
 それでも、返事はなく、誰も出てこなかった。
「開けてみるか」
 玄関は普通の住宅のような引き戸で、私が取っ手を持って横に引くと、直ぐに開いた。
「鍵、掛かってない」
「ごめんください」
 二人で何度も呼び掛けたが、返事はない。
「入ってみる?」
 勇気を出して、中に一歩入ってみた。
 中は真っ暗だった。
 入ってすぐの壁にスイッチがあるので押してみると、玄関先の明かりが灯った。
「ごめんください」
 やはり返事はなく、誰もいないらしい。
「これ、宿泊施設じゃなさそう」
 ローモンドが言う。
「でも、中央司令部から送られてきたあの車と連動した地図には、私達専用の指定ホテルのひとつだと記されていたはずだけど」
「その地図、古いんじゃない?」
 心配そうにこちらを見た。
「そうかも」
 認めるしかない。
「他のホテルにする?」
 ローモンドは建物の中を覗き込んでいる。
「そうね。そうするしかないかな」
 早々にも次のホテルを指定しなければと考えていると、
「あ、ちょっと待って。中に、やっぱり本棚がある」
 ローモンドが叫んだ。「あの本!」
「あの本って――」
 私も中を覗き込んだが何も見えない。
「あの本よ。あの本がある」
 ローモンドが私の右腕を引っ張る。
「真っ暗でよく見えない」
「言ったでしょ、私は特別に眼がよく見えるのよ!」
 そう言いながら靴を脱ぎ、もう家の中に駆けあがっていた。
 急いで私も後を追う。
 玄関の上がり框の向こうにある部屋の明かりを点けると、小さな畳の間があり、その角にささやかな本棚があった。そしてやはり、一番下段の、一番左側に、《時空間移動手引書》と背表紙に書かれている、あの本が差し込まれていた。
「やっぱり、あの本だ」
 ローモンドは本棚から抜き取り、表紙を撫でた。
「ずいぶん埃が付いているのね」
 昨日借りてきたものよりもずっと古いものに見える。
「これも手書きみたい」
 ローモンドは埃を掃い、頁を開いて目を近付けた。
 見ると、彼女の言う通り、どの頁も印刷ではなく手書きで、中の文字は借りた本と同じようにインクの色が褪せてはいなかった。ほとんど誰も読んではいないのだろう。
「書いてある内容も同じ?」
「どうかな。えっと、エピグラフは――」
 ローモンドは最初の頁を開いた。「△|:|◇: わたしは あなたの 愛を 信じます、これを わたしの 最後の 言葉と させてください」
「同じね」
「ローラン、今日、ここに泊まろう。内側から鍵を閉めてしまえば誰も入ってこないし」
 ローモンドは本から顔を上げる。頬が紅潮している。
「危ないわ。食べるものもないし」
「ローランの家から少し持って来たでしょう。あれを食べればいい」
 これまでに見たことのないほど、目が輝いている。
「どうして、この家にこだわるの?」
「思い出したの。この本の内容を」
「読み聞かせてもらった部分?」
「それだけじゃない」
「それだけじゃないって?」
「私、この本を知ってた」
 ローモンドの目はさらに輝いた。少し息が早くなり、顔色もますます紅く染まっている。
「どういう意味?」
 どんなにローモンドが興奮していても、私にはさっぱり意味がわからない。
「この本に書かれていることのほとんどを思い出し始めたってこと」
 唇を一文字に結び、何があってもここに泊まるのだと頑固になっていくようだった。
「思い出したって、おばあちゃまに読んでもらう前に、誰かから聞いたってことかしら」
「そうじゃないの。いや、そうとも言える」
「何を言っているのか、さっぱりわからない」
 私は少し苛立ちを覚え、強く口調で言った。そうじゃないとか、そうとも言えるとか、何を言っているのだろう。それに、さすがに、この誰もいない家に泊まるのは危険過ぎる。
「ローラン、ごめんなさい。私、興奮してしまって」
 ローモンドはやっと少し落着きを取り戻した。
「怒っているわけじゃないの。でも、この家に泊まるのは危険すぎるでしょう。誰も住んでいない様子ではないわ。本には埃が着いているけれど、畳や窓の桟は清潔。梁と柱の間に蜘蛛の巣も張っていないし、ここには誰かが住んでいる。住んでいないにしても、定期的に掃除はされている。やはりシェフが居るのよ。勝手に上がり込んでいたら、地球では警察に捕まる」
「確かに、それはそう。でも、ここに居たはずのシェフ、再びここに戻って来るかどうかはわからない。ついさっき、出て行ったのかもしれないし」
「どうしてそう思うの?」
「この本の内容を思い出したから」
 また奇妙なことを言い出した。
「その説明ではわからないのよ」
 つい、また声を荒げてしまう。
「ローラン、わかった。じゃあ、こうしましょう。私が本当にこの本の内容について知っているかどうか、試してみない?」
「どうやって」
「この家の二階には、昨日のホテルで見たクリーム色の鳥の羽根がある。きっとある。この本の内容の通りであれば」
 ローモンドは決然として言う。
「もしもそれがあったなら――」
「そう、あったなら、私の言うことを信じて、ローラン」
 再び目を輝かせて私を見つめる。
 私は迷った。
 あるわけないと思う。でも、この目の輝きを見ていると、羽根はありそうだ。もしも羽根があった場合、ここに泊まることになる。それでいいのか。不安がよぎる。
 私は今まで、地球探索要員の養成所に居た頃からずっと、中央司令部の敷いた道に従って生きてきたのだ。もちろん、その道程にも不安がないこともなかった。養成所での競争や、地球に初めて来た時の孤独。それらも充分に過酷な運命だった。だけど、原則として、全ては従ってさえいればよかった。たとえ自身が破滅に導かれているとしても、どこか諦めに似た安心感があった。自身を破滅に追い込んだのは中央司令部であり、私自身ではないと考えれば、私は私に対して潔白のままで居られる。悪いのは彼らであり、私ではない。
 でも、この家に泊まるのは、どう見ても中央司令部の予定からはズレているだろう。恐らく、これまでの私の行動パターンから計算すると、今日中にお嬢様が調査してほしいと言っているエリアに入っているはずだ。
 過去のパターンから導き出す未来予想のアルゴリズムから、今、私は外れている。ローモンドの存在をお嬢様たちは知らない。話をすることのできない地球人だと思っている。彼女たちは地球人をそれほど異能な種だと思っていないから、私の行動パターンを変えさせるほどの影響力はないだろうと考えているのかもしれない。でも、私はローモンドと出会うことで、初めて、合理的ではない、のんびりとした旅を楽しみたいと思ったのだ。そのせいで完璧な未来予想アルゴリズムから離れている。そして、万が一、ローモンド自身がここにいることをお嬢様たちが知っていたとしても、乳母から複雑な古代文字を読む訓練を受けているとは知らないだろう。
「ローモンド。この家に泊まるかどうかを決めるのは後にして、とにかく、その羽根が二階にあるかどうか、それを見に行くことにする。それから考えましょう、私にも時間の余裕をちょうだい」
 今この瞬間にできる答を口にした。
 ローモンドは納得し、微笑んだ。

 薄暗い階段を上がり、引き戸で閉じられている二階の部屋に入った。
 スイッチを入れ、明かりを点ける。
 部屋に家具はひとつもない。
 板間だ。焦げ茶色で節だった板。
 その真ん中に、そのクリーム色の羽根はふわりと置いてあった。

(七章 了)

《あらすじ》
 
ローランとローモンドは「村ひとつ分の人がいなくなったエリアを探すミッション」に向かう途中だ。最初のホテルに到着し、中央司令部から派遣されたシェフに出迎えられた。ローモンドがホテルの廊下に本棚があるのを発見し、さらに一冊の本を見つける。他星の文字らしくローランには読めなかったが、ローモンドは乳母から習って読めると言う。タイトルは《時空間移動手引書》。しかも、ローモンドは乳母からその本を読み聞かせてもらったことを思い出した。そして、エピグラフを読むこともできた。
 その本を持って、二人は次のホテルへと向かった。
 次のホテルに到着するものの、人は誰もいない。別のホテルを予約しようと考えた時、ローモンドが「この本についてすっかり思い出し始めた。ここに泊まろう」と言い出した。ローランが迷っていると、「このホテルの二階にはクリーム色の鳥の羽根がある」とローモンドが言い、それが当たっていたら、このホテルに宿泊することを考えてほしいと頼むのだった。

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