03 プライドのへし折れる音。
17歳のわたしは親にも友達にも一切相談せず、自分で調べた美大受験の予備校の体験レッスンに申し込みます。当日の持ち物は、鉛筆と消しゴム。デッサンの1日体験でした。
さて、今でこそ「デッサンをする」「鉛筆と消しゴムを持ってくる」と言われれば、何を持っていくべきかグーグル先生がすぐに教えてくれますが、当時のわたしにそんな情報は皆無。学校の筆箱だけを持ち、住所を頼りにようやくたどり着いたのは、人気のないビルの6階でした。
エレベーターの扉が開いた瞬間、むせかえるような紙や画材の香りが流れ込み、それだけで酔いそうになります。エプロン姿のお兄さんが扉を開け案内してくれたアトリエに一歩足を踏み入れると、そこは今までに見たことのなかった世界が広がっていました。
こちらを無表情で睨みつける、真っ白な外国人の石膏像。無造作に置かれた、動物の骸骨。壁という壁には、なんでわざわざそれ描いた?と聞きたくなる絵がいっぱい貼られています。
写真と見紛うほどの精細な白菜に茄子。3Dモデリングソフトで描いたんじゃないの?ってくらい正確な石膏像。カップヌードル、コーラの瓶。パイプ椅子に置かれた、ピッカピカのやかん。紙いっぱいに描かれたリンゴと花瓶とテーブルクロス。
そして、奥には片手に食パンを握りしめ、牛の骸骨を囲んで座る生徒たちの姿。みんな黙々と取り憑かれたように手を動かしています。
なんだ、ここは。 なんなんだ、ここは。
黒魔術でもかかりそうなその部屋の片隅で、体験レッスンはスタートしました。参加者は、わたしを含んで3名。みんな同じ高校二年生でした。ほかの参加者(そのうちの1人は、後に大学の同級生になります)がおもむろに机の上に筆箱を出します。ちらりと盗み見ると、そこには無骨にナイフで削られた長短さまざまな鉛筆が10本以上並んでいます。
なんでこの人、こんなに持ってきてんだろ。
何度も言いますが、わたしはこのときが人生ではじめてのデッサン。恥ずかしげもなく鉛筆削りで無機質に削られたHBの鉛筆と文字通りの消しゴムを机に置き、ぼーっと始まるのを待っていました。
「今からレンガブロックを描いてもらいます。2時間で描いて、最後に前に飾って合評をしましょう。」
一人ひとりの目の前に紙と画板、レンガブロックが配られます。わたしの前で足を止め、先生が言います。「あ、鉛筆持ってきてませんか?貸しましょうか?」先生の質問の意図に気づかず「持ってきました」とHBを見せて答えるわたし。
あぁ、書いてるだけで恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
先生は何も言わず、アトリエにあった何十本もの鉛筆と練り消しを手に戻ってきました。そのすべてがナイフで無骨に削られています。ぶっちゃけわたし、鉛筆を鉛筆削り以外で削ってる人、それまで見たことありませんでした。
「鉛筆は、だいたい2Hから6Bまで揃えてもらうといいです。芯の柔らかさが違うんで、絵に濃淡が出せます。あと、細かく形が変えられるんで、消しゴムは練り消しがいいです。今日は、これお貸ししますんで使ってください。」
芯の柔らかさ? 絵に濃淡? 練り消し?
このへんから「ヤバイ」とは薄々感じていました。わたし、場違いだ。しかし、なんだかよくわからないながらも、レンガブロックと向き合う2時間。これまでもこれからもレンガブロックと2時間向き合うことなんかないよなと思いつつ、手を動かしはじめるとそれなりに楽しくなり、それなりに描けた気でいました。
このときまでは。
「そろそろ途中でもいいので、合評します。前のイーゼルに絵を立ててください。」
3人が絵を立てかけ、その場を離れた瞬間、わたしは気づいてしまいます。わたしだけが、とんでもなく下手だという事実に。
わたしの絵だけ、黒い。
というか、そもそもデッサンとは何なのか、なんで必要なのかがわかっていないので仕方ないといえば仕方ないのですが、わたしのレンガブロックだけめちゃめちゃ黒いんです。茶色は白黒にしたら黒に近いから、黒く塗ればいいのかな?なんて単純な考えだったんですね。
しかしながら、ほかの参加者のみなさんは鉛筆の時点で結構な手練れ。先生からも、光の入り方、素材の質感、カタチの正確な捉え方などに的確なアドバイスがなされていきます。
そしてラスト、わたしの絵の前で先生が口をつぐみます。あきらかにどこをどう指摘するか考えあぐねているのが手に取るようにわかります。
あぁ、恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
その後、先生からなんて言われたかは記憶から抹消されたのか憶えていません。大人になった今なら「わ、そういうことか!わたしの絵ヤバイ、全然わかってなかった!ゼロから教えてもらっても、まだ間に合います?」って平気で笑って言えるけど、17歳のプライドはガラスのように脆く、スカイツリーよりも高い。それがたった一晩で、ボッキボキ。それはもう見事に、こてんぱんにへし折られました。これが記憶にある中で、人生最初の挫折でした。
そうして無謀なる挑戦が終わった…のかと思いきや、わたしはプライドをかなぐり捨て、この予備校に通い始めます。
アトリエという場所は、不思議で魅力的で、誰かの夢に迷い込んだようで。そこにいる生徒や先生も、今までに出会ったことのない個性の塊のような人たちで。目の前に広がったはじめての世界に、わたしはすっかり魅了されていました。
まんまと黒魔術にハマってしまったのです。
↓ ゆるゆる続きます。
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