見出し画像

書籍紹介|バナナと日本人【JOCV Day124】

ヨルダン含め中東諸国の多くは金土休みになるのだが、今週の土曜日は一日中家にいた。インドア派では無いが、外に出なくても苦にはならない。

読まずに溜めていた本や論文に費やした。その中で、JICAボランティアの技術補完研修で学習した構造的暴力に関する古い書籍を紹介する。

日本人が安くて美味しいバナナを手に入れるため、フィリピン農園で地元の人々がいかに苦しい生活を強いられていたのか綴られている。生産者と消費者を分断するという多国籍企業の策略も明らかにされている。市場経済においては、何をつくり誰に売るのか、生産者が選ぶことができるはずだが、多国籍企業が巧妙な手口で生産者の行動に強い制限をかけてきたのだ。バナナ買取価格や農業資材の販売価格などにおいて、現代社会では考えられないような不平等な条件を、農家に対して突きつけてきたのだ。

そして、このような生産者の苛酷な状況を、消費者である日本人は知ることはまず無い。そして「農薬は使うな」、「旬な状態で食べたい」、「皮の黒い斑点は嫌だ」など、消費者として言いたいこと言う。このような消費者の態度には"作ってくれた人びとの労働が見えなくなった消費者のエゴイズム"があるのではないかと、筆者は言及している。

本書はバナナと日本人について書かれてるが、このような構造的暴力はバナナに限った話しでは無い。エビに注目して調査したものが同じく岩波新書から出ている。

いづれも古い本だが、現在であれば「スマートフォンと日本人」や「タピオカと日本人」などというテーマでも、突き詰めて調べて行けば構造的な暴力が見えてくるかもしれない。

インターネットが普及した現在では、当時の多国籍企業と同様な手口は直ぐさま明らかにされ、国際社会から批判を浴びるだろう。一方で、国際社会における構造的な暴力がインターネットの登場によって駆逐されているのかは甚だ疑問である。

世界各国の情報に簡単に触れられるようにはなったが、ネットで拾える情報の殆どは人間による編集を受けて発信されている。そのためフェイクニュースはもちろん、印象操作や情報操作もいくらでも可能である。情報だけでなく人や物もダイナミックに動くようになった。風が吹いた時にどこの桶屋が儲かるのか、掴みづらくなっている。

先日、「台風19号とラグビーとジャーナリズム」というタイトルでnoteを投稿した。

台風19号が襲来した翌日になぜラグビーワールドカップの試合が実施できたのかを、英ガーディアン紙がまとめている。担当はスポーツ部の記者なのだが、試合内容だけでなく、試合が開催された横浜国際総合競技場の治水機能や、交通インフラの調整など、スポーツ・環境・社会、あらゆる側面から取材した上で、限られた紙面にまとめている。

昔も今も、構造的な暴力を明らかにするのはジャーナリズムなのだろう。どこで何が繋がっているのか分かりにくい中で、政治・経済・社会・環境・科学・スポーツなど、従来の縦割りで情報を集めようとすると、重要な部分を見落とす可能性がある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?