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ウイルスが肉眼で見えたら、彼らが我々の都合などお構いなく振る舞っていることが分かるのだが【JOCV Day269】

このご時世、ウイルスが肉眼で見えたら、それも自分が見たいものだけを選んで見ることができたら、どれだけメリットがあるのだろうと考えることがある。それができる架空の少年をひとり知っている。

「もやしもん」という、とある農大を舞台にした漫画がある。主人公である新入生「沢木 直保(さわき ただやす)」は、肉眼で菌やウイルスが見えるという能力を持っている。彼らと会話することもでき、素手で彼らを掴むこともできる。

ものすごくざっくり説明すると、「もやしもん」はこの「沢木」とその周りを取り囲む愉快な仲間たちがわちゃわちゃ騒がしくキャンパスライフを送る物語である。

全13巻あるのだが、第2巻で「沢木」は、大学のサークル棟の一室がインフルエンザのクラスターと化していることを発見する。なぜ分かったかというと、「沢木」にはインフルエンザウイルスが「見えた」からだ。すぐさま大学の防疫班が出動し、サークル棟は封鎖されることになる。

漫画では「沢木」の特殊能力によって直ぐに事態が終息したのだが、仮に私たちが新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)を肉眼で見ることができたとしたら、この事態に私たちはどのように立ち向かうのだろうか。政治面で、個人の生活面で、対応が大きく変わるだろうか。外に漂うウイルスが恐ろしくて誰も外に出たがらないだろうか。もしくは思いの外避けられそうだと分かり、慎重かつ大胆に動きまわるだろうか。

人間の活動がどう変わるかはいくらでも想像できるが、どれが正解かは分からない。分かることとすれば、ウイルスは我々人間の都合などお構いなく振る舞っている、ということだろうか。

「もやしもん」では「沢木」とその仲間が菌を利用して一儲けしようと企むも、菌が「沢木」に対して人間の都合を菌に押し付けるなと注意する場面が何度か登場する。

新型コロナウイルスにとってはそこが病院なのか学校なのかスーパーマーケットなのかは(多分)どうでも良い。国境や県境も(多分)見えていない。人がそこにいればどうにかその細胞に自身の自己複製子を注入しようと試みるだけだ。「しようとする」と、あたかもウイルスに人間のような意思があるかのように書いてしまったが、そもそも我々が考えるような「意思」がウイルスにあるかどうすら甚だ怪しい。

私は高校生の時に友達から「もやしもん」を執拗に薦められた。渋々読み始めた結果どハマりし、やがて大学で生命科学を専攻し、大腸菌やバクテリオファージ(細菌に感染するウイルスのこと)の実験操作も経験した。

残念ながら肉眼で菌やウイルスが見えるようにはならなかったが、実験と観察を駆使することで肉眼で捉えることが困難な生命現象を人に説明しようと試みる知的営みこそが生命科学であると分かった。

生命科学の分野で新型コロナウイルスについての知見が蓄積されている。私たちが意思決定の拠り所にするべきはこれらの科学的知見であり、肉眼で見えないウイルスを過度に擬人化したり、その他人間的な要素を持ち込過ぎるのは危ないと思うところだ。

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