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らーめん屋台の怖い話し

らーめん弁慶の西川弓です。

「元気一杯80歳(現在)・生涯現役ラーメン屋のおやじ」
弁慶創業者・西川総一は屋台でらーめん弁慶を始めました。
そんな屋台時代のエピソードを少しずつご紹介しています。

昭和40年代、西川総一(当時30歳頃)は妻と子供4人を養うため、タクシー運転手のアルバイトをしていました。

大反対の中「自分はこれで生きていく!」


そんな時屋台のホープ軒(現千駄ヶ谷)で背脂らーめんにはまり、
「自分はこれで生きていく!」
という強い信念の元、親や妻からの大反対を押し切りホープ軒屋台でアルバイトを始めます。

その時一緒にアルバイトをしていた人の中に「らーめん香月(恵比寿)」の穴見氏もいらしたそうです。

数年働いた後に西川自ら屋台のらーめん屋を六本木に開業しました。
開業初日に売れたらーめんの数は夜8時から朝5時まででたったの6杯。
とてもその売り上げでは家に帰れず、実兄にお金を借りてから帰宅したそうです。

それでも大反対を押し切った手前、簡単には辞められません。

場所を霞が関の農林省の前に移動して毎日屋台を出し続けました。だんだんとお客様が増えてきて売上も安定し始めた矢先のことでした。

「場所代を払え」と脅され…

やっと売り上げが安定した頃、テキヤ商売の方から目を付けられ夜遅くなるとやってきては場所代を払えと言われました。
払う必要もないし、払えません。ときっぱり断っても簡単にはあきらめてもらえません。

その頃同じように屋台開業していた「らーめん香月の穴見氏」にも相談に行きました。穴見氏も 同じ思いをされていましたが「絶対に払っちゃだめだ」と言い、自身も頑なに場所代の支払いを拒否していたそうです。

するとテキヤの方は嫌がらせなのか弁慶の屋台の隣に屋台を出し始めました。それでも西川は自分の屋台を 辞めずに営業を続けていました。


ある日、屋台でいつものように仕事をしていたときのことです。
突然何人かがバタバタと背後に走り寄ってきたと思ったら、両腕を羽交い絞めにされました。
何かがチクっと腕に当たり、羽交い絞めにした人がサーっといなくなりました。 腕をみると血だらけで何かで刺された後でした。

父が右手に白いタオルをグルグルに巻いて

父がテキヤの人に右手を刺された翌朝のことを当時小学生だった私は鮮明に覚えています。

朝学校に行く前、父が右手に白いタオルをグルグルに巻いていたのですが
そのタオルは血で真っ赤でした。


私「どうしたの?」

父「包丁を落としてそれを手で掴んじゃったんだよ」

包丁を掴んでこんなに血が出るものか、と小学生の私ですら思いました。
出血もひどかったはずです。何か所かを刺されて、手のひらを貫通していたのですから。

しかも右手(利き手)です…そんな状態でその日の屋台の跡片付け(キャンプの数倍過酷)をよく一人でやったなと思うともう、「凄い」なんて言葉では言い表せないです。

その後病院で治療してもらい、たった1週間休んで屋台を復帰しました。

それでも屋台の開店が待ち遠しくてワクワクする父

当時のことを父によく聞くのですが「子供4人抱えて自分に出来ることはこれしか無いし、やるしかない、命までは取られないから大丈夫!」
と言います。
屋台時代の写真を見ると、父は本当に楽しそうな顔をしています。
屋台を開店するのが待ち遠しくて、毎日ワクワクしていたんだそうです。

今の堀切店開業が決まり屋台を閉業する頃、隣に屋台を出していたテキヤの親分(?)がやってきて言ったそうです。
「あんた良い根性してるな!うちに来ないか?」

丁重にお断りしたことは言うまでもありません(笑)

※注)屋台のらーめん屋をやっていた、と話すと誤解される方が時々いらっしゃいますが会長西川総一は正真正銘100%堅気の人間です。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

屋台時代はラーメン450円でした


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