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#読了 「異邦人」(カミュ, 新潮出版)

 「今日、ママンが死んだ。」いきなりインパクトのある一文だ。

 主人公は一体何を思うのだろうか。大抵の人は悲しい主人公をイメージし、自己投影を試みて読むはず。しかしこの主人公はまるで堪えていない。

 母親が亡くなっても意外とあっさりしているタイプか、と解釈を修正してみても異常な人物である。裁判で検事にも指摘されているが、母が死んだ翌日に女と戯れ、共にコメディ映画をみている。

 常識的には考えられない行動なので、ムルソーは理解されない。

 "死生観"。彼とほかの人物に決定的な違いはここにあると思う。

 私はクリスチャンというわけではないが、ムルソーに比べればあの神父に近いのかもしれない。ただ"死"が近づくだけなのは耐えられない。"神"なり"仏"なり"ご先祖様"なり"後世"なり"生きる意味"を保証してくれるはずだ。彼は"神"を信じないようだ。大切なのは、生きる意味を保証してくれる存在に相当するものー日本人でいえば"他人の目"や"仏"ーが全くないことだ。

 死生観のせいか、野心あるいは夢もムルソーにはない。なくても問題ない。

 例えば私の場合、いつだって"将来"で何らかの形で報われることを期待している。現時点の努力がいつかは報われるはずだ。今回はダメでも今度こそは。きっとそれは素晴らしいものだ。どれほど素晴らしいのか、どれほどの意味を持つのかは掘り下げない。そして今日を頑張って生きている。ムルソーにはない。まるで機械のような不気味さを覚えた。

 では、彼はどういう人間なのだろうか。

 恋人と映画をみたり、海辺で遊んだり、お酒やタバコを嗜んで娯楽にする。いずれも"今"感じる喜びだ。(もちろん、私たちも感じる喜びだが彼にはそれが全てらしいのだ。) 極論するなら、彼はその日その日を生きる人間。これ以上の豊かさを望まず自分の生活に幸福をたくさん感じられる人間。

 私は同じようにはできない。その原因は、死をはじめとする様々な不条理に対して、可能な限り拒絶したい人間だからだ。

 不条理は、異邦人で扱われているテーマでもある。人生における不条理に対し我々はどう向かっていくべきなのか。小説の主人公=ムルソーを通じてカミュの考えを読み取れるのではないか。

 肉親と死別するのも、自由を剥奪されるのも"慣れる"。そして恐ろしいのが、"慣れ"により済んでしまうことだ。どの時点で切り取っても"不条理"な運命に不服を訴えずただ受け入れるムルソーの姿が映る。彼は、最後に死すら迎え入れた。ガタガタ歯を震わせて死の恐怖に怯えながらも内面的な統制を試み成功している。これも超人的だと感じる。

 こんな人間が超人なのか。ただ理不尽を受け入れろというか。それで人間に尊厳など残されるのだろうか。こういった疑問と同じく、私も読んでいる最中はムルソーに嫌悪感を覚えていた。

 私は小説を読んでいる間、「ムルソーには道徳や美学といった自分なりの考えを持っていないのか!なんだこの主人公は!気に食わん!」そう感じた。しかし、最後まで読むと、反対に尊敬の念すら抱いた。

 終盤のシーン。神父の言葉に対してムルソーはいっぺんの迷いもない。バッサリと切り捨て、残りの時間をただ一人"味わおう"としている。それを邪魔されてイライラしたせいで、つい心中を吐露したシーンだ。

 宗教的な正当性や個人の思想による仮定を前提に据えなければ、人生の意味など存在しない。彼は理解していた。そのうえで、生きる価値、人間としての尊厳を自分の中に持っていると感じた。彼の"慣れ"ー不条理を受け入れるーという姿勢は、逆説的に生きている事実を何よりも証明するものだった。つまり、生きるとは不条理であり、この事実から逃げずに真正面から受け止めるのこそ自信、ひいては人間の尊厳へと導かれる。

 大変感動的ではないかッ!!これが超人でなくなんだと言うのかネッ!!

 

 

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