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庭の中の小さな平和

植物が好きな人は、タイトルをご覧になるだけで、何となくぴんと来るところがあるかもしれません。

世界中に感染症が拡がっている、このような心がざわざわしがちなとき、ただゆったりと樹々の生長を眺める、手入れをすればなおよろしいが、お茶を淹れてただ眺める、というだけでずいぶん心が平らかになってくる。

そのことにとりたてて理由を探す必要もないけれど、とりわけ今は、一刻一刻変化していく生き物である目の前の草木と触れ合うことで、自分自身の生き物としてのさまざまな不充足が補われているのかもしれない。そんなふうに感じる。

というのは、感染症の騒ぎは、人の生活を、ーー少なくとも物理的にはーー、分断するように働いている。

なるべく顔を合わさないように。なるべく近寄らないように。さらには、この人混みの中にもすでに病気の人がいるかもしれない。あっ、あの人咳をした。

それは仕方のないことで、家に居て、そのようにして接触を減らすことは賢明であるばかりでなく、多くの他者への配慮として必要なことに違いありません。

それでも、私たちの体と心は自分以外の生命とどこかで触れ合いたいと願っている。ニュースを観たり、SNSの投稿を通じてだって、画面の向こうの「人」と繋がれないことはないけれど、それで事足りるとはどこか思いきれない。

サプリメントや点滴ではなくて、顔の見える距離で親しい人が火を通した温かい食べ物が欲しくなることに、少し似ているだろうか。

ごく若い、開いたばかりの蕾、光に透けるまだ柔らかい青葉、目を覚ましたばかりの小さなカエル。金木犀やカエデなどの新芽は、まだ赤味を帯びている。生まれたばかりの命は、人間の子どもだけでなく、ほんとうに赤いのだ。

明日目を覚ましたら、もっと葉は生い茂っているだろう。枝の重なりが地面に落とす影はもっと濃くなっているだろう。そうした変化を、ことさら言葉にするわけではないが、静かに感じながら、ただ樹々の中に身を置く。

〈自然〉は山川草木を指して言われることが多いが、私たちの体と、そのいわば「器」の中で揺れる心もまた〈自然〉に他ならない。だから、――そう感じるというだけで、何の目新しい記述でも大きな発見でもないが——、静かに眺めているだけで、樹々と私は生き物としてゆるゆると繋がっていく。庭の草木の移ろいに自分自身の今の心の揺れ、さまざまな想いが映り、私の心の中に葉や花や枝のとめどない活動の一瞬一瞬が刻まれていく。そうして、私の中に小さな落ち着き、平和と呼んでよいような穏やかで好ましいものを、この交わりは生み落とす。

それで、私の外の広大な世界がいちどきに平和になるわけでないのは言うまでもないが、こんな、もしかしたらたあいのない小さな平和を日々積み重ねながら、たいせつな人たちと再会し、覆いを外して近くで顔と顔を合わせて言葉を交わせるときを楽しみにして待ちたい。そう願って私は自分の小さな庭にあり、上を見上げたりしゃがんだりしながら陶然として過ごす。


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