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行かなくてもわかる  〈GENKYO 横尾忠則  原郷から幻境へ、そして現況は?〉     レビューしてみた。

横尾忠則の存在を知らない人に説明することはしない。

それはビートルズを知らない人にビートルズを説明するようなもので、それ自体がいくらでも長い一文を構成してしまう。
ビートルズやストーンズによって始まるロックやポップミュージックの歴史があるように、日本のグラフィックデザインとイラストレーションの歴史は横尾忠則と和田誠によって始まった、ということだけ言っておく。
まあ、簡単に現代風にいうと「神」。
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しかし。。今回はグラフィックデザインとイラストレーションではなく、アーティストとしての横尾忠則の展示である。40年前に彼はアーティスト宣言をしている。
とにかく膨大な量の、しかも200号とか楽勝の巨大な作品がところ狭しと展示されている。
その質と量に圧倒される。

円卓で中華料理を食べていて、「もうお腹いっぱい」といっても、さらに10皿くらいでてくる感じといえばわかるだろうか。
アーティスト宣言をした40年前から、こんなに旺盛に仕事していたとは思っていなかった。
大昔、一度テレビで青年期の横尾忠則が死の恐怖について語ったのをおぼえている。
死の恐怖が創作への圧力になっているという話だった。
僕も子どもの頃に一度、「死ねば自分が無くなる」ということに思い当たって、なんとも言えない強い恐怖を感じたのを覚えている。

しかし、その強い感情は一晩寝ると忘れてしまった。
同じ恐怖を想起しようとしてもどうしてもそのときの感情は再現できない。
人は死の恐怖に直面できない。僕のような凡人はその恐怖を無意識下に押し込める蓋をする。
僕の場合は一晩でそれが形成されたのだ。

しかし、横尾忠則はその蓋がうまく形成されない性質であるらしい。
死んだらなんでもなくなる。しかし、描いて作品を発表する限りにおいて、何者かであり続けられる。
乱暴にいうと、そういう原理が強烈な創作のモチベーションになっているのだろう、と推測される。
それくらいの質と量なのである。
金や地位や名誉、自己承認欲求とか、そういうものではなく、もっと存在の危機的なもの。
強迫的な動機・モチベーションも彼の巨大な才能の一部である、と痛切に感じた。

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アーティストとしての初期中期までの作品は、作品中にさまざまなシンボルを思わせぶりに投げ込んだものが多い。
横尾忠則は、かつてインドの傾倒して何度も訪れていた。
ビートルズもインドに行ってマハリシという師と出会うし、インドはスピリチュアルな源泉のある特別な土地と見られていた。
昔読んだ何かの記事に、「横尾忠則がインドに行ったときに絵葉書ばかり漁っていて幻滅した」というものがあった。
当時はまだ、オリジナルに対する素朴な信仰、信頼があったから、なんだ横尾忠則はインドまでいって「ネタ集め」してるのか、と思われたのであろう。
僕は横尾忠則がインドでネタ集めばかりをしていたとは思わない。ネタ集め〈も〉していただろう。
しかし、それがあまりに鬼気迫る「大人買い」だったので、こんな話題になったのだろう。
今回の展示にも滝の絵葉書を滝のように展示するというインスターレーションがある。
滝の絵葉書だけで、13,000枚以上はあるらしい。
横尾忠則は、自分をインスパイアするもの、膨大に集めて、そのごく一部を自分の表現に噴出するのだ。
それらのシンボルは、絵の中で強力な影響力、オーラのようなものを放つ。
しかし、散りばめられた複数のシンボルは決して調和的でない。
ハーモニーではなくシンボル相互の主張は不協和音となる。
一枚の絵画、一枚のポスターが凄まじい音量のノイズを放つのである。

若い頃、僕はその手法があまり好きでなかった。
シンボル相互の関係は一つの焦点を結び、意味、あるいは一つの物語に収斂すべきだと思っていたのである。無責任に放り出すだけなら簡単ではないか、というくらいのことを思っていた。
しかし、今はそうは感じない。
物語に収斂させるやり方には限界があると思う。
彼の作品を見た者はなんとか意味を見出そうとするが、探そうとすればするほど不協和音が鳴り続けるという手法は立派なものだと思う。
実際横尾忠則のポスターはじつによく目立った。
一目で横尾忠則と分かった。
そして、彼がポスターを作るのは、唐十郎の状況劇場を始め、非常に尖った新しい変わった表現者が多かったので、そこに何か特別な意味を感じさせたのだ。
彼のポスターの背後で、一つの時代がドクンドクンと脈を打っていた。
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展示の後半は、もはや地形全体が一つのシンボルとなる「Y字路」。
愛猫タマを偲んで描かれた「タマへのリクイエム」の連作。これは小品で90点ほどあり、さまざまな手法で描かれている。
最後の大きな展示室は、「原郷の森」と名付けられている。
2021年の大作が並んでいる。
横尾忠則の創作衝動は衰えていない。
なんかユルーい描き方だが、つかまえようとしているものは明確だ。
ここの作品を見ると、死の世界と現実界の境目がもやーっとあやふやになるような気がする。
天才が行き着いた境地を共有することができる。

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タイトルに「行かなくてもわかる」と書いたが、大嘘の冗談である。
東京近郊の人は行くべし。
ぶっとぶから。


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