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謎の古墳時代を読み解く その10 新唐書の日本国 前編 歴代天皇について

 今回は、以前の『旧唐書』の解説につづいて、ここでは『新唐書』について解説したいと思います。『新唐書の東夷日本伝』には、日本国の歴代天皇についての記載があります。
(ここでは、「天皇」という呼び名で統一していますが、天皇は7世紀から8世紀前半に作られたと考えられる称号のため、それ以前は、スメラミコトやオオキミなど、違う呼称であったと思います。)

□新唐書とは

 1060年に成立した中国の二十四正史の中の一書です。北宋の第4代皇帝の仁宗の命により、北宋の欧陽脩宗祁、宋敏求、曾公亮らによる選定で、『旧唐書(くとうじょ)』を改訂、増補したものとされています。旧唐書と区別するため、新唐書と呼んでいますが、単に唐書と呼ぶこともあるようです。日本については、東夷日本伝としての記載があります。原文は漢文で2頁に収まるくらいの短い文章です。

 『旧唐書』は、唐末五代の戦乱の影響で史料不足による内容の不足、不備が大きかったようで、宋代になって資料を集めて不足分を補って加筆されています。ただし、選定や加筆時に、簡略化され過ぎたり、文章を改変していたり、解釈に誤解があったり、また宋代に盛んとなった中華思想儒教の価値観によって書かれた記述があり、資料的な価値では『旧唐書』に及ばないとされています。

 中華思想や儒教的な価値観で書かれたというのが伝わりにくいと思ったため、ここに少しだけ補足します。

 例えば、中国近隣諸国の2つの国が争い、たまたま勝利した国が中国に朝貢に来ていて、負けた国が朝貢に来ていない場合には、勝利した理由は、中国皇帝の徳のおかげだや、負けた理由は中国に朝貢して来ないからだとなる可能性があります。逆に中国に朝貢して来てない国側が戦略や戦術を考え、正々堂々と戦い勝利した場合でも、相手を騙すような卑怯なことをしたから勝利したとかにされる可能性がありえます。また、その戦場で負けた側のある武将が敗走中に戦死した場合、単に逃げおくれただけだったとしても、自分の仕える主人や大切な部下を逃がすために自ら犠牲になって死んだ徳の高い人のような解釈や説明となる可能性があります。その他にも、中華思想や儒教に基づいた判断で、都合が悪い事実があった場合には、記録上から消される可能性があります。

 このように儒教の価値観により、理想像、あるべき姿というのがあり、事実はどうだったかではなく、あるべきの理想像やイデオロギーに当てはめて解釈や説明を行う形になるため、時には事実とは全く異なる記録、つまり有りもしなかった美談や英雄が作られたり、濡れ衣を着せられたりする可能性があります。儒教が、歴史を歪めてしまう可能性があるということです。これは、中国や儒教に限らず、多かれ少なかれの違いはありますが、他の宗教や国にもそのような傾向がある宗教や国もあります。儒教は日本にも入って来て影響を与えているため、日本も同様で儒教の影響を受けている国となります。

□新唐書による日本の主


 原文では、以下のように、日本国の歴代の王(スメラミコト、オオキミ、大王、大君、尊、天皇)の名前が記載されている。以下の太字が歴代天皇名となる。

 なぜこんなに詳しく中国側で日本の歴代天皇が分かるのかというと、出典は示されていないものの、『宋史の日本伝』の記載内容から、東大寺の僧侶奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』の記載内容を参照したと考えられているそうだ。

其王姓阿每氏 自言初主號天御中主彥瀲 凡三十二世 皆以 爲號 居築紫城 彥瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州 次曰綏靖安寧懿德孝昭天安孝靈孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀 仲哀死 以開化曾孫女神功爲王 次應神仁德履中反正允恭安康雄略清寧顯宗仁賢武烈繼體安閒宣化欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明皇極

以下のような内容となっている。

・王の姓は、阿毎氏
・最初の主は、天御中主
・彥瀲に至るまでが32世(おそらく23世が正しい)
・皆が、尊と号し、築紫城に居した
・彥瀲の息子の神武が立ち、天皇と号し、
 大和州に統治を移した
・次は、綏靖で、以下歴代天皇が記載されている
・仲哀が死んで、開化の曾孫娘の神功が王となる
・次は、應神で、以下歴代天皇が記載されている
・欽明の11年(550年)は、
 梁の承聖元年(552年)にあたる(2年のズレあり)
・次は、海達で、次は、用明で、またの名を、
 目多利思比孤と言い、随の開皇末にあたる
・随の開皇(581年〜600年)末に、始めて中国と
 国交を通じる
・次は、崇峻で、崇峻が死んで、欽明の孫娘の
 雄古が立った。
・次が、舒明、次が、皇極

 この『新唐書』には、天御中主のあと彥瀲に至るまで、凡そ三十二世との記載があり、その間は省略されているが、後の『宗史』には、この間の尊の名前が列挙されている。また、『新唐書』では、「三十二世」との記載があるが、『宗史』では、「二十三世」と書かれていて、丁度23代の名前が記載されている。このため、三十二世は書き間違いや写本時の転写間違いで、二十三世が正しいと思う。

 宗史に記載されている歴代の尊は以下となる。ここでは、省略された尊達は、この23代のことだとして考察したい。この最初に記載されている天御中主は、実は、日本側の神話でも、一番最初に登場する神であり、最初に出てくる3柱で『造化の三神』や、この次に出てくる2柱んと合わせた5柱で、『別天津神(ことあまつかみ』とも呼ばれている。以下が、とても有名な『古事記』に書かれている冒頭の「天地開闢の時」の一文となる。高天原に住まう神々の話しだ。なお、2人目以降の神の名は、新唐書とは一致していない。

「天地初發之時 於高天原成神名 天之御中主神 次高産巣日神 次神産巣日神 此三柱神者 並獨神成坐而隠身也」

天御中主、天村曇尊、天八重曇尊、天弥聞尊、天忍勝尊、瞻波尊、万塊尊、利利塊尊、國狭槌尊、角龔魂尊、扱津丹尊、面垂見尊、国常立尊、天鑑尊、天万尊、沫名杵尊、伊弉諾尊、素戔嗚尊、天照大神尊、正哉吾勝早日天押穂耳尊、天彦尊、炎尊、彦瀲尊、凡そ二三世

 また、新唐書では、この後にも、皇極天皇以降の天皇についても、記載がされている。以下の内容となる。(以下、西暦年が分かるものには、西暦年を補足しています。原文には西暦年の記載はありません。)

永徽(650〜655年)の初め、孝徳天皇(645〜654年)が即位、改元して白雉(650年〜654年。九州年号では、白雉は、652年〜661年)
未だ幾ばくもなく孝徳が死に、子の天豊財(名が天豊財重日足姫尊である斉明天皇655〜661年)が立つ
死に、天智(668〜672年)が立つ
天智が死に、子の天武(673〜686年)が立つ
死に、子の総持(持統か?、持統天皇690〜697年と思われる)が立つ
長安元年(701〜705年)、文武(697〜707年)が立ち、改元して太宝(大宝701〜704年)
文武が死に、子の阿用(日本側の記録を元にすると、前後の文武天皇と聖武天皇の間だと、元明天皇か元正天皇かと思われる。元明天皇の諱が阿閇なので、どちらかといえば、元明天皇か。いずれにせよ、どちらの天皇が一人は欠ける)が立つ
死に、子の聖武(724〜749年)が立つ、改元して白亀(神亀724年か?、霊亀714年か?)
聖武が死に、娘の孝明(孝謙か?、孝謙天皇749〜758年。二度目の即位では称徳天皇764〜770年)が立つ、改元して天平勝宝(749〜757年)
孝明が死に、大炊(諱が同じ大炊であり、孝謙天皇の次で、称徳天皇の前になる淳仁天皇758〜764年だと思われる)が立つ
死に、聖武の娘の高野姫(孝謙天皇、称徳天皇764〜770年の別名が高野姫)が王となる
死に、白壁(光仁天皇770〜781年の諱が白壁)が立つ
貞元(785〜805年)の末、王は桓武(781〜806年)
次は、諾楽が立つ(前後の天皇より、平城天皇781〜806年と考えれる)
次は、嵯峨(809〜823年)
次は、浮和(前後の天皇が一致しているので、誤字で、淳和天皇823〜833年と思われる)
次は、仁明、仁明(833〜850年)は、開成四年(839年)に当たる
次は、文徳(850〜858年)
次は、清和(858〜876年)
次は、陽成(867〜884年)
次は、光考(884〜887年)、光啓元年(885年)に当たる

※日本側の天皇名と異なる場合には、太字で表現

 

 一方で、『新唐書』に記載されていた光考天皇まで『日本書紀』に記載されている日本の歴代天皇を並べてみると以下となる。

初代 神武天皇 じんむ
2代  綏靖天皇 すいぜい
3代  安寧天皇 あんねい
4代  懿徳天皇 いとく
5代 孝昭天皇 こうしょう
6代 孝安天皇 こうあん
7代 孝霊天皇 こうれい  
8代 孝元天皇 こうげん
9代  開化天皇 かいか 
10代 崇神天皇 すじん
11代 垂仁天皇 すいにん
12代 景行天皇 けいこう
13代 成務天皇 せいむ
14代 仲哀天皇 ちゅうあい
15代 応神天皇 おうじん
16代 仁徳天皇 にんとく 
17代 履中天皇 りちゅう
18代 反正天皇 はんぜい
19代 允恭天皇 いんぎょう
20代 安康天皇 あんこう 
21代 雄略天皇 ゆうりゃく 
22代 清寧天皇 せいねい
23代 顯宗天皇 けんぞう
24代 仁賢天皇 にんけん
25代 武烈天皇 ぶれつ
26代 継体天皇 けいたい 507年
27代 安閑天皇 あんかん  531年
28代 宣化天皇 せんか 535年
29代 欽明天皇 きんめい  539年
30代 敏達天皇 びだつ 572年
31代 用明天皇 ようめい 585年
32代 崇峻天皇 すしゅん 587年
33代 推古天皇 すいこ 592年
34代 舒明天皇 じょめい  629年
35代 皇極天皇 こうぎょく 642年(1回目)
36代 孝徳天皇 こうとく 645年
37代 斉明天皇 さいめい 655年(重祚 2回目)
38代 天智天皇 てんじ 668年
39代 弘文天皇 こうぶん 671年
40代 天武天皇 てんむ 673年
41代 持統天皇 じとう 686年
42代 文武天皇 もんむ 697年
43代 元明天皇 げんめい 707年
44代 元正天皇 げんしょう 715年
45代 聖武天皇 しょうむ 724年
46代 孝謙天皇 こうけん 749年 (1回目)
47代 淳仁天皇 じゅんにん 758年
48代 称徳天皇 しょうとく 764年 (重祚 2回目)
49代 光仁天皇 こうにん 770年
50代 桓武天皇 かんむ 781年 
51代 平城天皇 へいぜい 806年
52代 嵯峨天皇 さが 809年
53代 淳和天皇 じゅんな 823年
54代 仁明天皇 にんみょう 833年
55代 文德天皇 もんとく 850年
56代 清和天皇 せいわ 858年
57代 陽成天皇 ようぜい 876年
58代 光孝天皇 こうこう 884年

 ここで、上記の『日本書紀』に書かれている歴代天皇と、『新唐書』での日本の歴代天皇を並べて比較してみると、以下のような差がある。ただし、重祚(天皇を退位した後に、再び天皇になること)についてや、孫娘や娘、子供や弟などの血の繋がり等に関する差異がある点、西暦で確認した際の数年の違いも複数の箇所で違いがある点などは、ここでは真偽の考察も難しいため、差違の対象から除いている。

  • 日本では天皇は初代の神武天皇から始まるが、新唐書では、神武天皇の前に23世が存在し、神武天皇は第24代の天皇となる。

  • 神武天皇の前の23世のほとんどは日本神話に出てくる神々であり、実際に神武天皇の父や祖父や先祖とされている神である。ただし、23人しかいないので当然だが、全ての神々が登場するわけではない。

  • 神功皇后が天皇になっている。新唐書では、仲哀天皇の次は、神功が王となっている。(ここでの王は、天皇を意味することだと思う。冒頭の出だしが、日本の王は阿每氏で、初代が天御中主という記載から始まり、桓武天皇が王とも書かれているため。)また、次の時代の『宋史』では、『仲哀天皇』の次は、神功天皇と記載されている。

  • 敏達天皇が、おそらく海達になっている。次の時代の『宋史』では、正しく敏達天皇となっている。

  • 新唐書では、用明の別名が、目多利思比孤になっている。日本書紀には記載されていない名前。次の時代の『宋史』では、用明天皇の別名は記載されておらず、用明天皇の子供の聖徳太子についての説明が記載されている。

  • 随の開皇(581年〜600年)末に始めて国交を通じている。奴国や倭国の時代から捉えれば、古くから朝貢をしている。遣隋使としては、600年〜618年の間に行われた。おそらく、『旧唐書』で倭国と日本国が並んで書かれていたように、倭国と日本国の国名の変化による混乱や、隋としては始めて国交を交わしたような意味合いなのかと思う。もしも、この一文に深い意味があるとすれば、これまでは倭国と、今回は始めて日本国とという意味で書かれていて、倭国と日本国は明確に異なる国(勢力)であり、中国側もそれを正しく識別し認識出来ていたという解釈があると思う。

  • 推古天皇が、おそらく雄古になっている。次の時代の『宗史』では、正しく「推古天皇」と記載されている。

  • 持統天皇が、おそらく総持になっている。次の時代の『宋史』では、今度は、持総天皇となっている。

  • 阿用という名前は、日本書紀には登場しない。元明天皇の諱が「阿閇」なので、元明天皇が、おそらく阿用になっている。そのため、次の天皇の元正天皇が、天皇として記載されていない。ただし、次の時代の『宗史』では、阿閇天皇の次が帰依天皇で次が聖武天皇とあり、並び的にも、おそらく帰依天皇が元正天皇だと思われる。そのため、たまたま一代が記載から抜けてしまっていただけで、深い意味は無いと思う。

  • 聖武天皇の時代の年号に、白亀は無い。神亀が、おそらく白亀になっている。ただし、白亀は、『旧唐書』にも、「白亀元年の調布」が登場している。また、中国の次の時代の『宗史』では、「聖武天皇が宝亀二年(宝亀二年だと聖武天皇の時代より後の光仁天皇の時代の771年になる。もし、神亀二年だと聖武天皇の725年。もし、霊亀二年だと前の元正天皇の時代で715年。)に僧正の玄昉を唐の開元四年(716年)に入朝させた。」という記載がある。こちらも、年号の二文字目に同じ亀の字がついた年号の記載誤りだと考えられる。僧正の玄昉は、日本の初期の仏教世界では功労者として有名な人物であり、日本側の記録では、元正天皇の養老元年(717年)の遣唐使に学問層として随行して入朝となっている。

  ※白亀元年の調布については以下にも記載あり
  その7 旧唐書にある日本国 後編
  https://note.com/ram3838/n/n90c5c8d8af13

  • 孝謙天皇が、おそらく孝明になっている。次の時代の『宋史』でも、引き続き孝明天皇と記載されている。

  • 平城天皇が、諾楽(なら)になっている。次の時代の『宋史』でも、引き続き諾楽天皇と記載されている。平城天皇は、わすか3年で退位して上皇になり旧都の平城京(奈良市)に移り住んで平城京への遷都を宣言し嵯峨天皇と権力争いで対立したため、別名が奈良帝(ならみかど)のため、こちらの通称が記録されている。

  • 淳和天皇が、おそらく浮和になっている。次の時代の『宋史』では、正しく淳和天皇と記載されている。

 おそらく誤字や誤植と思われる漢字の違いは除き、ここまでに見つけた差異を踏まえて、これからいくつか点について、考察していきたい。

□神武天皇より前の王

 『古事記』や『日本書紀』では、九州より近畿に移動し、日本の初代天皇になったのが神武天皇で、神武天皇は、天照大御神の五世の孫、高御産巣日神の五世の外孫となっている。『古事記』や『日本書紀』でも、最初は天之御中主から始まり、次々に神様が産まれ、やがて大地がうまれという流れでスタートしている。この新唐書も、代々の王が記載されており、神様と王様という違いはあれど、神武天皇までの歴代が記載されていることには、違いがないと思う。

 よって、私自身は、実態としては神武天皇が初代というわけではなく、実は先代もいて、その時代の中で神武天皇という人物が登場し、また新しい国の流れを生み出したのだと思っている。なお、神武天皇は、架空の神話上だけの人物ではなく、古代において全くの無からこれだけの具体的な有は生み出せないと思うため、実在のモデルがいたや、なん世代で行われたのかはわからないが、そういうことを行った一族または、王族グループがいたのだと思っている。

 詳しい考察は、いずれ、『古事記』や『日本書紀』を読み解くシリーズで神代についても考察したいと思っていますので、ここでは、このくらいにします。

 日本の歴史上、例えば継体天皇など、有名な人物の5世の孫という存在は数多くいるのですが、私はそれの大元は、この神武天皇が天照大御神の5世の孫から来ていると思っています。間違いなく家柄が繋がっていて5世の孫であることが明らかな場合は除き、突然、過去の偉大な人物の5世の孫が出てくると、実は血の繋がりがない、あったとしても遠すぎるため、そこで、実質的な王朝や家柄が断絶して入れ替わったと考えてもおかしくなく、むしろそう解釈した方が実態により合っている気がしています。

□神功皇后の扱いについて

 実は神功皇后は、明治時代までは日本でも天皇だったと考えられていた時代もありました。『常陸国風土記』、『扶桑略記』、『神皇正統記』などでは、神功皇后は天皇として記載されているようです。代15代天皇であり、女性としての初代天皇、初の女帝とされていました。

 『古事記』や『日本書紀』では、天皇としては記載されていませんが、天皇と同等かそれ以上の扱いでの活躍が記載がされています。全三十巻ある日本書紀の第八巻が14代仲哀天皇、第九巻が神功皇后、第十巻が15代応神天皇のことを記載しており、ここからも天皇相当の扱いであることがみてとれます。

 天皇ではない扱いをしている有名な書は、江戸時代に徳川御三家の当時の藩主である水戸光圀の命により作成が始まり、水戸藩にて水戸学者達(儒教の影響を受けた朱子学がベース)により二百数十年継続して完成された『大日本史』です。こちらでは、神功皇后は、皇后伝の中に列記されています。

 明治時代に歴代の正式な天皇を決める議論がなされ、約60年という長い期間をかけた検討の結果により、大正15年(1926年)の皇統譜令に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外されています。

 神功皇后の父は、開化天皇の玄孫の息長宿禰王で、神功皇后は、開化天皇の5世の孫娘となります。また、神功皇后の母親は、新羅の王子である天之日矛(アメノヒボコ)の子孫である葛城高顙媛であり、朝鮮半島、新羅系血が入っています。神功皇后は、夫の仲哀天皇の死後、約69年間摂政として天皇に変わって政務を行い、神功皇后が百歳になって亡くなった後、翌年にやっと皇太子だった自分の息子の応神天皇が即位しています。神功皇后は、応神天皇を筑紫の地で産み、その後、継承問題で自分の息子を継がせるためにも、応神天皇の異母兄に当たる仲哀天皇の長男や次男を近畿地方でやぶり、大和入をしています。神功皇后は、熊襲征伐にや3韓征伐など武功を挙げています。

 天皇は、7世紀〜8世紀の間に作成された称号だと思いますが、それ以前は、スメラミコトやオオキミなどと呼ばれていた存在だったと考えられています。例えば、スベラギ(須米良伎)、スメラギ(須賣良伎)、スメロギ(須賣漏岐)、スメラミコト(須明樂美御德)、スメミナノミコト(皇御孫命)、オオキミやオホキミ(大王や大君)、尊(ミコト)、君(キミ)などです。さらに、後の時代には、帝(みかど)、天子(てんし)、内裏(だいり)などとも呼ばれています。なお、スメラというのは、澄めるという清らかさや尊さを表すという説や、統べるという説や、古代のサンスクリット語「sume:ru」(須弥山)や、モンゴル語「sümer」(須弥山)が語源(須弥山の意味としては精神世界での世界の中心の一番高い山、山の神などを表す模様です。)説などがあります。
 中国側からみたら、中華側は皇帝であり、周辺の属国や蛮族の国は、全てその地域の王(中国の皇帝より下)の存在となるため、倭国や日本国は、王(オウ)という扱いだったと思います。

 ここからは、私の勝手な妄想ですが、なぜ呼び名が沢山あるかというと、2つの理由がある気がしています。1つ目は、あまりにも高貴な尊き存在を直接的に呼ぶのは恐れ多いという心情から、出来るだけ間接的や抽象的にその存在を呼んで指し示すための呼び方が生まれたことです。もう1つは、元々は、今の日本列島に古代には、複数の地域に複数の国々があり、それらの国々や地域性のグループにより、呼び名が全然違ったり、あるいは似た意味から派生する形で多少違ったりしたのではないか、その名残りではないかと思うことです。
 ある国々のグループでは、キミが国の王を表していて、やがてグループ全体の国々を束ねる全体の王が現れたため、もう1段上のオオキミとなったや、ある国々のグループでは、ミコトが国の王を表していて、それらのミコトの国々を束ねる最高の尊が現れたためスメラミコトなどの名前に昇格したなどです。スメラの類似が複数あるのも、身近な国々での呼び方の差異かもしれません。
 他にも、例えば、天御中主、大国主などが、「高天原(たかあまのはら:天界の神々が暮らす場所)」から降りた地である「葦原中国(あしはらのなかつくに:現在の日本列島のこと)」を治めていたわけなので、そうすると、そこから「主(ぬし、あるじ)」が当時の王(後の天皇)を表す言葉だったり、筑紫の日向の宮や高千穂の宮などに住んでいたから、当時の王(後の天皇)が存在する場所を示し「宮(みや)」と呼ばれていたとしてもおかしくはないと思っています。
 また、古くから中国、朝鮮半島では、王が国を治め、中華の皇帝からも、その地域の王として定められるため、朝鮮半島の真似をして、倭国、日本国側も、自分たちの王(オウ)だと認識するようになり、そう呼んでいた時代があってもおかしくなくと思っています(やがて、王では、中国皇帝とは決して対等な立場でないと気づき、天皇に改めたと思われるため)。大王と書いてオオキミと読む読み方にも、このような王と呼んだ時代背景や、あるいは、当て字として、中国の王を、倭国、日本国のキミに当てたような背景を感じさせる読み方だと思います。
 これらは、あくまで想像のため、事実とは全く異なるかもしれません。

□神功皇后は天皇なのか

  神功皇后の業績を踏まえると、九州の地から大和入りをした神武天皇の神武東征を彷彿させたり、熊襲征伐や東国征伐を果たしたヤマトタケル(倭建命/日本武尊)を彷彿させるような人物だと思う。過去の伝説的な人物と比肩されるくらい、それくらいの偉大な業績を残している。

 開化天皇の5世の孫娘という血縁関係の遠さや、九州からの大和入りなどは、ここで王朝が交代したと考えてもおかしくないと思う。仲哀天皇が急死したのは、神功皇后が自分の息子に王位を継がせたく、暗殺したと考えてもおかしくない。実際にもし仲哀天皇が熊襲や仮に朝鮮半島に遠征の後、勝利しようが負けようが畿内に戻った場合、仲哀天皇には、妃としていた大中姫命との間に2人の皇子がいた。

 私は、わざわざ自分の息子を天皇にしたくて、自分の夫の子供達を殺したにも関わらず、応神天皇が成人した後も天皇にしていない状況から、やはり神功皇后がある時代において天皇だったと考えている。天皇不在のまま継がせたい息子がいる中で、空位のままにするはずが無いと思うからだ。これが、神功皇后が仲哀天皇の死後、天皇に即位していたと考えると、すでに天皇はいるわけで、本人が死んだら、皇太子である応神天皇が天皇になるということで、極めて自然な流れになる。天皇を退位して上皇になり、次の天皇に位を譲るようになるのは、まだ先の時代の話しだ。そのため、新唐書にも神功皇后が王という記載があるのだと思う。少なくとも、当時の人々は、神功皇后が仲哀天皇の次の尊、大君(王、天皇)になったという認識だったと思う。
 神功皇后が百歳まで生きたとは思わない。神功皇后のエピソードが全てが全て事実とも思わない。しかし、全くの架空とは思えない。『古事記』にも『日本書紀』や『風土記』にも登場し、九州や畿内を中心に多くの縁の地や伝承が多数残されているからだ。4世紀〜5世紀のある時代において実在した人物なのだろうと思っている。少なくとも、モデルとなりうる実在した人物がいたはずだと思う。

 そして、神功皇后が正式な歴代天皇として認められなかった最大の理由は、表向きの正論が日本の正史である『日本書紀』で神功皇后が天皇に即位した記録が記載されていないことと、さらにもう1つのその実態としては天皇としての血縁関係の薄さにあるのではないかと思う。もし、神功皇后が景行天皇や成務天皇の娘や孫娘とかの確かな近い血縁関係だったり(血統主義)、あるいは逆に新羅王家の血を引いていなかったりしたら(純国主義)、または女性でなければ(男尊女卑)、明治大正の激動期での皇室議論において、15代天皇になっていたのではないかと私は感じている。
 
 ここでは、「天皇」と表現していますが、天皇という呼び名は、7世紀から8世紀前半に作られた称号のため、実際の神功皇后の時代では、スメラミコト、オオキミなどと呼ばれる存在だったと思っています。この当時の呼び名には、他にも諸説あります。いわゆる倭国や日本国の政権、祀りの実権を握る代表者である王という存在のイメージでの神功天皇と表現しています。

 ここで、『古事記』の世界に書かれている仲哀天皇の即位から亡くなる迄のシーンを紹介します。だいたいの記載はしていますが、途中少しの内容は省略しています。仲哀天皇は、帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、神功皇后は、息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと)ですが、ここでは単純化するため、諡号や大君や大后に統一しています。

 『13代成務天皇の後を継いだのは、その息子ではなく、倭建命(やまとたけるのみこと)の息子である仲哀天皇。大君の息子ではない者が後を継いで大君になるのはこれが初めて。これまでは、大君の位は親から子へ譲られていた。仲哀天皇は、穴門の豊浦(山口県下関市)の宮と筑紫の訶志比(福岡県福岡市東区香椎)の宮とにいて天下を治めた。大君が筑紫の訶志比の宮に座して、熊曾の国を撃とうとした際、大君が琴を弾き、建内宿禰(タケノウチノスクネ)が沙庭(神を迎える神聖な場所)に座し、神の言葉を請うた。大后に神が依り憑き、お告げがあった。「西の方に国がある。金や銀や珍しい宝があふれるほどある。その国を、寄せ与える。」大君は、「高い所から西の方を眺めたが、国地は見えない。大海が広がっていた。」と言い、偽りの神だと思い、琴を遠ざけて弾くのをやめ、黙って座っていた。神が怒り、「この国はなんじの統べる国ではない。1つの道に向かうべし。」と告げた。あわてた建内宿禰の大臣が、「恐れ多いことで、我が大君、もう一度琴をあそばしたまえ」と言った。大君は、また琴を引き寄せて、なまなまと心を込めずに弾いていた。するといくらも経たないうちに、琴の音が聞こえなくなった。神を寄せる屋は暗闇で何も見えない。すぐに宿禰が火を灯してみると、大君はすでにこと切れていた。驚き恐れて、大君の亡き骸を殯の宮に納めて、穢を祓うために、全ての国から貢物の幣を集め、毛物の皮を生きたま履いだり、田の畦を壊したり、親と子で交わったり、馬と交わったりした者、そうした罪という罪を探し求め、それらの罪を祓うため、国を挙げての大祓いをした。ふたたび、建内宿禰が沙庭に座し、神のお告げを請うた。また神功皇后に依り憑いた神が、同じ教えをし、加えて、「この国はそなたの腹の中に坐す御子が統べる国だ。」と告げた。建内宿禰が「その神の腹に坐す御子は、いずれ(誰)の子にや」と問うと、「男の子である」と答えた。神の名を尋ねると「これは天照大御神の御心でり、我は、底筒之男命(ソコツツノヲノミコト)、中筒之男命(ナカツツノヲノミコト)、上筒之男命(ウワツツノヲノミコト)の三柱(この3神は、住吉三神と呼ばれ、住吉神社に祀られています)の大神で、国を求めるならば、御霊を船に置き、大海を渡っていくべし」と答えた。』

 ここでは、詳しく触れませんが、いくつかのかなり興味深い記載内容があります。仲哀天皇は、親から子への継承ではない始めての大君。仲哀天皇が天下を治めていた場所は、下関市や福岡市の宮(居住)。西に国がある(朝鮮半島のある北ではなく)。天皇が琴を弾いて、皇后に神が宿る。天皇が死に穢れたので、罪を集めて祓いを行った。誰の子か尋ねたが、それには答えず、「男の子」と答えた。どちらの神様か尋ねたら、「天照大御神のお考えで、お告げをした神は住吉三神(住吉三神を祀る住吉神社は、長崎の壱岐、福岡市、下関市、大阪市等全国にある。西から東に伝わったとされる神社)である」と答えた等です。

 仲哀天皇の最後を、現代風に捉えると、大君、大后、大臣の3人で国の方向性を決めようと部屋で話し合ったら、皇后の意見に天皇が合意せず、大臣が諭しても聞き入れなかったため、皇后が天皇を暗殺したように捉えることも可能です。

 お腹の中の子供である応神天皇は、神功皇后と建内宿禰の間の子供という説もありますが、少なくとも『古事記』から読み取った印象では、建内宿禰が誰の子なのかを尋ねているくらいなので、建内宿禰には自分の子供という心当たりはなく他の誰かという印象で、また夫である仲哀天皇であるとも明確に答えれないくらいなので、仲哀天皇でもなくと言う印象を受けます。

 天皇が琴を弾き、それにより皇后に神が宿るというのも、日本古来のヒメヒコ制での祀りだったことを感じれますし、また楽器というのは、本来、このような神との繋がり、会話や交流のために使われていた道具であることを感じさせてくれます。

 天皇が突然の不審死で、しかも神の意思に背いてという罰当たりな死に方をしたため、この最大級の穢に対して、合わせて国中の罪を集めて、一緒に大祓いをして浄めるあたりが、国家の一大事を表している気がします。仮に暗殺だとしたら、殺された仲哀天皇の無念な気持ちが怨念として宿るので、なおさら最大級の鎮魂の儀式が必要になります。また、罪の例えが、親子または動物との交わり、動物を生きたまま解体、稲作への悪影響のあることなど、当時の人としての道徳心や狩猟や稲作の重要性の価値観が見えてきます。

 また、西に(北には朝鮮半島の、西には本州、四国の)国があるのは、この時代の北部九州の人々にとって誰もが知る周知の事実であるにも関わらず、仲哀天皇が国が見えないという愚かさが際立っていて、だから死ぬのは(殺されるのは)当然で仕方ないという印象を与えているとも思います。北(新羅等)でも南(熊襲)でもなく西なのは、まるで後に神功皇后が仲哀天皇の太子達を破り畿内入りするのを暗示しているかのようです。

 このように、様々な考察、想像がいくらでも可能な仲哀天皇のパートなのですが、ここでは一旦、このくらいとします。『古事記』の楽しさが伝わると嬉しいです。

□用明天皇は目多利思比孤なのか

 用明の別名が、目多利思比孤という名前から、連想される名前は、以下の隋書倭国伝の俀国の王の名が「多利思北孤」だ。(俀国(イコク)か倭国(ワコク、イコク)かの違い等はここでは触れず、以下は倭国として扱う。)

開皇 二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣 闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟 天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟髙祖 曰此大無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六 七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭

  • 開皇二十年(600年)に、倭王の姓は阿毎(アマ、アメ)、字は多利思北孤(タシリヒコ)、号して阿輩雞彌(アワケミ、アホケミ、オオキミ)が使いを遣わした。

  • 王の妻は、号して雞彌(ケミ、キミ)

  • 太子は、利歌彌多弗利(リカミタフリ)

 実は31代用明天皇は、在位が約2年しかなく、587年頃には死亡している人物となっている。用明天皇は、聖徳太子の父親である。次が32代の崇峻天皇で、592年に暗殺されている。その次が33代推古天皇の時代(593〜628年)である。隋の時代の開皇20年はちょうど西暦600年で、日本での遣隋使の1回目が実施された年である。

 これらを踏まえると、『隋書』に記録があり、随の時代の国交があった倭国王が多利思北孤で利歌彌多弗利という太子がいる状況を踏まえて当てはめて考えて、用明天皇の別名が目多利思比孤(多利思北孤)と推察したのではないかと思う。名前が微妙に異なるのは、誤植や誤認識によるもので、600年という年代がぴったり一致しているので、おそらく同じ名前を示すのではないかと考える。

 しかしながら、そもそも600年という年代では、年代が合っていないため、用明天皇が多利思北孤にはなり得ないし(死亡してから13年も経過している)、また600年という年代に合わせると、今度は、女帝の推古天皇となり、性別が合わない問題が生じてしまう。

 このように、辻褄が合わずに無理やりこじつけているだけの気がするため、用明天皇は、多利思北孤ではないと思う。

※隋書倭国伝については、以下に考察しています。
その4 隋書の倭国 前編と後編

□白亀の年号

 白亀は、日本の正式な年号の記録には無い。中国側には、『新唐書』に、「聖武が立つ、改元して白亀(聖武天皇の即位は724年)」とあり、『旧唐書』にも、「開元(713年-741年)の始めに朝貢してきた際、学問を教えて貰ったお礼に渡した『白亀元年の調布』」として、二度登場する。

 この年代の遣唐使では、日本側の記録では、702年、717年、733年、746年が存在している。開元の始めといえば、717年の遣唐使になると思う。この717年の遣唐使は、第九期となる遣唐使で、あの非常に有名な安倍仲麻呂吉備真備や、玄昉(日本への法相宗を伝えた第4祖とされる仏教界に貢献した人物)等が留学生として入唐している。

 白亀があったとするならば、717年の遣唐使に持っていけるように、715年や716年には少なくとも存在していたことになる。しかし、そうすると、聖武天皇が724年に即位して改元した事との辻褄が合わなくなる。そのため、旧唐書の「白亀元年の調布」は、霊亀(715〜717年)元年(715年)の誤字で、新唐書の「神武即位での改元」は、神亀(724〜729年)の誤字というのが一般的な解釈となっている。

 たまたま二度とも漢字を間違い、どちらも白亀と同じ漢字に間違えたという偶然はなかなか無いのではないかと思う。また、そのときに、丁度、霊亀と神亀という2文字目に亀がある元号というのもすごい偶然、そうそうない確率だと思う。一応、いくつかの解釈があるため、以下に並べてみる。

  • 白亀は、それぞれ霊亀神亀の間違いで誤字。

  • 霊や神と白では全く漢字が似ておらず、発音も異なるため、誤字ではない。

  • 白亀(びゃくき)は、もう少し前の時代の白雉(びゃくち)(西暦650年〜654年。九州年号では652年〜661年)の間違いで誤字。「白雉元年の調布」を、持って来ていたので、返礼品に用いた。

  • 神武天皇の即位の改元は、最初は白亀だったが、直ぐに神亀に更新されたため、日本側に白亀の記録が残っていない。

  • 白亀の調布は、中国故事の『白亀の恩(亀の恩返しの話)』の故事にちなんで、わざわざありもしない年号の「白亀元年の調布」を作成し用意した。教えて貰った恩はずっと忘れない、日本は中国にずっと従いますのような意図の意思表示を中国側に伝えるため。

  • 当時、白亀を元号(私年号)として用いていた国や地域が、倭国や日本国に存在していた。(ただし、私年号では最も有名な九州倭国で用いていたとされる現存する九州年号には、白亀は存在していない状況)

  • 「白亀元年の調布」の白亀は、かつて鮮半島にあった国で用いていた年号で、そのときの調布としての品で、滅亡した国のため記録が残っていない。

 漢字も音も似ていない中で、2回も同様に間違うのは不思議だし、単純な間違いだけで説明出来るわけではないと思う。白亀の恩の話も最もらしいが、わざわざ存在しないものを作成し、遣唐使団が直接中国の皇帝や朝廷に納めた品ではなく、随行して入唐した留学生が寺院で教えて貰った返礼の御礼品として納めた品であること等、仮に日本が中国に対する忠誠を伝えたいならば、もっと他に伝わりやすく工夫したやり方がありと思うので、私は違う気がする。白雉元年の調布というのも、あってもおかしくはないと思うが、それにしては、少し年代が空き過ぎているのが気になる。

 このように、単純な話しから深い話しまでがあり、なかなか結論を出すのは難しい状況だ。

※白雉元年の調布については、以下にて記載
その7 旧唐書にある日本国 後編 日本人の活躍

 『新唐書』には、もう少し興味深い内容があるため、後編にてご紹介したい。

■次回は、新唐書の後編 白村江の戦いについて

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊


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