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Nobody is right/中島みゆきと近代思想史

 倫理のリード文を作りました。メッチャ長いので実際は4分割して出題しました。文章自体は読みやすいと思いますので、お時間のある方、お気楽にお読み下さい。(^^)

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2020年12月に中島みゆきベストアルバム『ここにいるよ』がリリースされました。これは全国ツアー「ラストツアー/結果オーライ」がコロナ禍で中止になったことにより急遽、制作・発売されたものです。そのCDに初回限定盤特典として「Nobody is right」のライブ映像DVDが添付されました。

「Nobody is right」正しい人なんか誰もいない、正しい人などどこにもいないのだ。そう歌うこの曲は、2007年10月に発表されたCD『I Love You,答えてくれ』に収録されています。

これは2001年にアメリカで起きた9.11同時多発テロに触発されたもの。彼女は、着想を得て歌になるのに数年かかることも珍しくない、と語っていまが、この歌も世に出るまでに6年かかっています。それだけ深い思考の中から生まれた言葉であることがうかがわれます。

 ライブ映像では、まず詩の一部が朗読されます。「正しさと正しさが相容れないのは一体なぜなんだろう Nobody is right 正しさは Nobody is right 道具じゃない」そう読み上げてから歌われる中で「Nobody is right」という言葉が何度も繰り返されます。

なぜこの時期に彼女は、数多ある曲の中からこの歌を選び人々に届けようとしたのでしょうか。

2020年、新型コロナウィルスが全国に広がり社会は大混乱に陥りました。彼女自身のコンサートだけでなく、多くのイベントは次々と中止、学校でも行事や部活動は制限または禁止されました。

ワクチン接種が始まると今度は陰謀説をまことしやかに語る人が出てきて世論は分断されます。自分は正しい、相手が間違っている、そう主張する人たちの正義があちこちでぶつかり合いました。

コロナ禍の中で「正しさ」が人を傷つけているのです。そこから彼女はこの言葉を今どうしても伝えたいという強い思いにかきたてられたのではないでしょうか。この一曲のみを収録している所にもその思いの強さを感じます。


では私たちが考える「正しさ」とは何でしょうか。イギリス経験論の代表者であるベーコンは、実験や観察を知識の源泉と考える帰納法を提唱しました。自分が体験したことだから、自分が見たから間違いない、と。彼はその正しさを人の役に立てようとしました。彼の「知は力なり」という言葉にはその思いが込められています。

そのためには4つの"イドラ"(先入観や偏見)を排除しなければなりません。しかしそれは容易ではありません。体験には必ず感情がまとわりつくものですし、コロナに対する恐怖心から目の前の事実を歪めて受け取ってしまうことは十分に考えられます。

これに対して理性による推論を知識の源泉と考え演繹法を提唱したのが大陸合理論のデカルトです。彼は主著『方法序説』の冒頭で、良識(ボン・サンス)はもっとも公平に配分されているとし、人間は情念に左右されずに正しく判断する「高邁の精神」があると考えました。

そして論理の正確さを担保するために絶対に間違いのない明晰判明な真理を手に入れるためにあらゆるものを疑う方法的懐疑によって、最終的に「われ思う、ゆえにわれあり(cogito, ergo sum)」と考えこれを第一原理としました。

思惟する自己の存在を原点として世界を捉えることは近代的自我の発見と言われる大きな業績です。しかし今度はそうやって理性的思考から排除された人間の情念をどう扱えばいいのでしょうか。感情は常に私たちの中に存在します。物心二元論や機械論的世界観では、私たちの心と身体のつながりや様々な宗教について明確に説明することはできません。

また、いくら理性的な考察をしたとしても、実際に行動しなければ問題は解決できないのです。コロナ感染の疑いがあるなら、あれこれ考えていないですぐに受診するべきです。身体が存在しなければ精神も存在できません。

これらを踏まえて、ドイツ観念論のカントは、認識は素材としての経験を理性がアプリオリ(先天的)に与えられているカテゴリ-(形式)に従って再構成して成り立つと考えました。

これをヘーゲルの弁証法で捉えなおせば、テーゼであるイギリス経験論とそのアンチテーゼである大陸合理論の対立をアウフヘーベンしたジンテーゼであると考えることができます。

カントの立場から言えば、認識は対象に従うのではなく対象が認識に従うことになります。つまり今まさに目の前で起きている様々な事象をどう捉えるかはすべて本人の次第だということです。ワクチンを素晴らしい解決策だと信じる人にはそう見えるし、誰かの陰謀として見ようとする人にはそうとしか見えません。

 また彼は、科学的領域で真偽の判断を行う理論理性とは別に道徳的領域で行為の善悪を判断する実践理性があると考えました。「汝の意志の格率(個人の行動基準)がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」とする彼の道徳法則は善を為せという命令(定言命法)です。

本来、私たちは自由でどんな選択でも可能な状態にあります。カントは、その中から道徳法則に従いそれを行おうとする意志によって行為するのが人格である、と考えました。

この点で彼は動機説の立場を取っており、善悪の判断基準を役に立つかどうかで判断しようとする功利主義とは反対の立場であることが分かります。

彼は人格について「汝の人格やほかのあらゆる人の人格の内にある人間性を、いつも同時に目的として扱い、けっして単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」と言っています。

しかし、それは永遠平和がなければ成立せず、現状では実現不可能であることにカントは気付いていました。そしてこの思想はコロナウィルスの脅威の中にある今の私たちにとってもあまり力になりません。

判断をするためには情報が必要です。フランス啓蒙思想のディドロが百科全書によって人々に正しい知識がすぐに手に入れられる状態を目指したように、ウィルスの性質、症状、まん延状況、予防方法、ワクチン副反応、医療機関など、多くの情報が提供される必要があります。

とはいえ情報が多すぎると混乱を招き判断を妨げる事になります。現状では理論理性は真偽の判断ができず、実践理性も善悪の判断ができないため、それが善いかどうかの判断も不可能であり、絶対的な「正しさ」を手に入れることは現実には困難なのです。


では政治における「正しさ」はどうでしょうか。

16C、中世は中央集権的な君主制である(絶対主義)の時代でした。王の権限は神によって与えられたという王権神授説によって王の支配は正しいと信じられていたのです。

しかしキリスト教の絶対性が揺らぐようになり、人間は存在の基盤である自然に「正しさ」を求めるようになりました。国家や社会が成立する前の自然状態を考え、人間には生まれながら平等にもっている自然権(基本的人権)がある、と考え、人々が契約によって国家権力を形成したという社会契約説が唱えられました。それを正しいと信じる人々によって市民革命が起こり、近代民主社会が訪れたのです。

そのような先人によって近代では人権を保障することが正しいとされるようになりました。現代では人間が決め特定の地域に適用される実定法は人権を守るために定められるようになっています。

ヘーゲルは人倫の三段階の最終段階である国家を、真の自由が実現する最高の共同体だと考えました。自然な愛情で結ばれる家族と、利益を追求する「欲望の体系」である市民社会との双方の矛盾を解消し止揚することで到達する段階です。

そのことから考えて、国家がコロナという未曾有の危機に対して、国民を守り経済を動かすためにイニシアチブを取ることは正しいと言えます。では、コロナ禍において現在それぞれの国家はどのようにふるまっているのでしょうか。

いくつかの国はコロナの急速なまん延に対して、非常事態宣言で混乱を収拾し、感染を広げないよう強力な圧力で国民の活動を制限しました。

国民もホッブズのいう「万人の万人に対する戦い」にならないよう、それぞれの権利を放棄して強い政府である「リヴァイアサン」の支配に従うことが正しいと判断したからです。

しかし『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が指摘しているように、それは国家が今後も国民の人権を簡単に制限できるようになったとも考えられます。

もちろんこの状況を小さなコミュニティで解決することはできません。コロナウィルスは世界中にまん延しており、国家間の協力や情報提供は不可欠です。

ルソーの考えた直接民主制は互いに顔を合わせる全員参加の話し合いが前提ですが、それはコロナ禍のようなグローバルな問題を取り扱うには不向きです。大きすぎる集団では一般意志がうまく作用せず、特殊意志の総計である全体意志に流されてしまう危険性がありますし、そもそも集まること自体が感染のリスクを大きくします。

私有財産が不平等を生み文明社会を作ったという説には説得力はありますが、現状では「自然に帰れ」という彼の言葉は、とうてい現実的とは思えません。今やその自然が人間に牙をむいているのです。

そのような中で日本政府は、強制力のある命令ではなく国民それぞれの判断に任せる「お願い」レベルで乗り切ろうとしています。

ロックは所有権を保障するために、人権を政府に委託して政府を作り、革命権・抵抗権を保障するよう権力の分立を主張しました。後にモンテスキューが三権分立として完成させたように、強すぎない政府が国民の意思を常に配慮しながら慎重に進む現状はある意味、現実的な対応と言えるかもしれません。

このように、私たちが感じている「正しさ」は実は絶対的なものではありません。しかし何が「正しい」のか分からない状態はとても不安です。



これに対して、無条件で絶対的な「正しさ」を提供してくれるのが宗教です。神は絶対で常に正しい存在です。だから人々は不安に襲われた時、よりどころとなる絶対的な「正しさ」を宗教に求めるのです。

中世カトリック教会も神は絶対的な力を持つと主張しました。人間の価値を相対的に矮小化し、神の代行者である教会を疑うことは許されませんでした。

コペルニクスは観測結果から地動説を確信し『天球の回転について』を死の直前に発表しましたが、彼の予想したとおりそれは教会に糾弾され禁書となりました。ジョルダーノ・ブルーノは地動説を捨てなかったために火刑に処せられました。ガリレイも地動説を唱えましたが、宗教裁判で撤回させられました。

しかしその後ニュートンが発見した万有引力の法則によってそれらがすべて自然現象であると証明されました。天を神の居場所や天国だとする考え方ははっきり否定されたのです。日頃の体験から太陽が動いていると考えた「正しさ」は間違っていたのです。

そのカトリック教会が教会建築の費用を集めるために販売していた贖宥状(免罪符)に対して、ルターは、「95か条の意見書」で異議を唱えました。これが宗教改革の始まりです。

彼は人間の恣意的な行為からその権威を奪い取り、人間以外の客観的「正しさ」を聖書に求めました。そこに書かれた文字、言葉をよりどころとしたのです。正しいのは教会ではなく聖書であるという聖書中心主義(福音主義)から、聖書さえあれば誰でも牧師の役割を果たせると万人司祭説を唱えました。それは人間の感情や恣意的な判断を通さない分、客観的な基準と言えるでしょう。

しかしルターの影響を受けて宗教改革をリードしたカルヴァンは、「正しさ」の規準を最終的には彼自身におきました。神の冒涜を理由とする破門や死刑などの処分を決めていたのは結局は彼です。彼に逆らうことは許されませんでした。神権政治という形式ながら、やはりそれは人による支配だったのではないでしょうか。

職業を神から与えられた神聖な義務であるとする職業召命観や、後に資本主義経済の成立につながる「禁欲・勤勉・正直」という職業倫理に添った生き方を命じたのも結局は彼でした。

これらの宗教改革に対して、カトリック教会内部でも自分たちの行いは誤っていたと認め、正しい状態に立ち戻ろうとする反宗教改革が生まれます。

彼らはキリスト教こそが正しく、それ以外の宗教は正しくない、それゆえにキリスト教を異邦人に教え導くことは正しいことだ、と考えたのです。

イグナティウス・ロヨラのイエズス会を中心として宣教師たちは世界の果てまでキリスト教を布教し、世界中のすべての人を「正しい」キリスト教信者にしようとしました。日本にやってきたフランシスコ・ザビエルもその内の一人でした。

キリスト教のみが正しくそれ以外は野蛮であり未開であるという欧米の意識はこの後、多くの悲劇を生むことになります。こう考えるとやはり宗教の「正しさ」も絶対的なものではないのです。


中島みゆきの『ここにいるよ』は「エール盤」と「寄り添い盤」の2枚組で、それぞれの名前の通りに選曲されています。恋愛だけでなく社会を歌う稀有な歌手である彼女は、常に理不尽に耐える弱い立場の者に「寄り添い」そして「エール」を送るためにこれを編んだのでしょう。そこには今コロナで痛めつけられているすべての人への強い思いが込められています。

正義と別の正義が衝突している今、自身が作り上げた正しさを振りかざすことがどのような結果につながるのか、論理がもたらす結果がどのような感情を引き起こすことになるのかを考えなければなりません。

「Nobody is right 正しさは Nobody is right 道具じゃない」と彼女が繰り返し訴えるように「正しさ」は相手に勝つための道具ではないのです。

もちろん「Nobody is right」という言葉も絶対的に正しいわけではありません。もし本当に「正しさ」が存在しないならば私たちの生活は成り立ちません。

では「正しさ」とは何のためにあるのでしょうか。道具ではないのならば、それは何だと考えればいいでしょう。

モラリストの一人であるモンテーニュが「クセジュ?(私は何を知っているのか?)」と問い続けたように、私たちは常に「正しさ」とは何かを問い続けていかなければならないのです。
                            (2022.2.22)


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