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就労支援の原風景

                           PN.窪 棚沖
 
 今回の投稿にあたり「就労支援」について書くことになった。
 
 私は現在、福祉職として障がいを持った方々の就労支援の仕事をしている。
 
就労支援とは、就労を通して本人の自立を目的に、就職活動や就職後のサポートの提供を行うことである。具体的な例の一部として、ハローワークに同行し窓口で一緒に相談し、応募した際には場合によって面接の同行もする。
就職後は必要に応じて職場訪問し、本人や企業担当者と業務の様子や体調について話し合うこともある。
そのようにして就職した先にある、本人の役割だったり、生きがいだったり、夢だったりを応援する仕事でもある(と私は認識している)。
 
 そしてまた、この原稿を書くにあたり考える。どのようにして就労支援を書いたらよいものだろうか、と。
 考えた末、相手に想いを伝える方法として、個人の「原風景」を語ることは有効な手段のひとつではないだろうか、と結論に至った。
 だからこれから語る文章は、私個人の就労支援の原風景だ。
  
               ***
 
 仕事帰りに居酒屋で酒を飲んでいたら、同僚が生絞りグレープフルーツサワーを頼んだ。
 それを見て私が、就労支援っていいですよね、と突拍子もなく言ったものだから、同僚は不思議そうな顔をした。
 
 バツの悪さを感じたので、少し酔ったふりをして水を頼む。
 コップに口を付けながら、自身に対してもっと酒を飲んでもよいのに、と思った。少なくとも今は薬を必要としていないのだから。そしてそれはデイケア(通所リハビリテーション施設)にいた頃には考えられないことだった。
 私は、手をあげ店員を呼び、冷酒とあん肝を頼む。
 壁のテレビからは「釣りバカ日誌」が流れている。そういえば、三國連太郎が亡くなったのはいつだっけ、とあの頃のデイケアのことを思い出していた。
 
   *
 
「セイシンホケンフクシシ」やら「サギョウリョウホウシ」など、やけに長い名前の資格だな、と思ったのが最初の印象だった。
 しかも一度聞いただけでは覚えられず、何度かそのスタッフらに聞き返すと、最初の頃こそ笑顔で対応してくれるも、そのうち表情も曇りがちになるからこちらとしてもいたたまれない気持ちになってしまう。
 
 デイケアに通所してから数か月が経っていたが、いっこうに馴染める気配がなかった。クセの強い利用者が多すぎる。
 うつの人たちが集まる場所と聞いていたから、皆静かなのかな、と想像していたら、実際は妙にテンション高く喋りつづける人や常に落ち着きなく動き回る人なども居て、なにぶんこちらも心的不調なこともあいまって、時々そんな彼らの行動に当てられてしまい、頓服薬を飲むことも何度かあった。
 
 またその頃、三國連太郎が死去したことを知り、若干気持ちも沈みがちだった。子どもの頃、釣りバカ日誌が好きで、亡き父と何度か映画に行ったことも思い出して。
 
 私が所属するデイケアのクラスには二十名程が在籍し、平均十五名程度の出席率だった。教室(?)は狭いし、建物も古いしで、室内はすぐに人の熱気で息苦しかった。その重々しさの理由はそれらだけではない。大きなウエイトを占めていた原因は利用者Aさんの存在もあった。
 
 Aさんは当時四十代の男性で、自ら「アスペルガー症候群だから空気が読めない」と言っていつもムスッとしていた。隣の席の女性がいつも困った顔をしていた。
 
 プログラム講義で講師がAさんに質問を振ると彼は不快な表情で無視した。すると室内の空気はいつも微妙なものになる。人によっては不調を訴え退席した。それは主に隣の席の女性だった。そしてそのうちその女性は通所しなくなった。
 
 クラス担当のセイシンホケンフクシシさんは、それから毎日Aさんを特に気にかけ話しかけるようになった。Aさんは変わらずふてぶてしい顔で無視を続けた。それでもセイシンホケンフクシシさんは毎日話しかけた。
 
 Aさんとは仲良くなれそうもなかったけれど、通所を重ねるうち、よく話すメンバーも何人かできるようになり、一緒に遊びに出かけるようになった。
 
 仲良くなったメンバー内で、自分以外は、うつを理由に休職している復職者で、彼らには(様々なハードルがあるのは事実だが)いずれ帰る場所が存在していた。
 一方で、私は離職しており体調が整い次第、就職活動をする求職者であった。
 もちろん復職者には復職者の悩みがあり、彼らの話を聞き共感をもっていた反面、心のどこかでは「帰る場所があっていいな」と思っていたのも事実だった。仲間内で自分だけが帰る場所がないことに一抹の寂しさを感じてしまい、また人と比べてしまう自分自身が嫌だった。
 酒の席で「産業医」やら「リハビリ出勤」などの話を聞くとどこか遠い話のようで彼らとの距離を勝手に感じていた。
 
「求職者の福祉施設があればいいのにな」と、老舗居酒屋で生絞りグレープフルーツサワーを飲みながら、そんなことを考えていたことは今でも覚えている。
 
 そして今日はアルコールを飲んだから服薬は控えないといけないな、と思った。そんな薬のことを考え続けて生活する毎日にも辟易していた。
 
 Aさんが笑顔を見せるようになったのは、それから二か月程経った頃だった。
 その事実は私にとって驚愕な出来事だったし、おそるおそるAさんに声をかけると普通に返事がかえってきたことにも驚いた。Aさんが笑顔を見せるなど想像つかなかったし、いくらセイシンホケンフクシシさんが彼に話しかけ続けてもそれは徒労に終わるとたかをくくっていたからだった。
 
彼は、それから数か月してクラスの誰よりも早く復職することになった。Aさんがデイケアを卒業する日、担当のセイシンホケンフクシシさんは、笑顔のAさんと彼に話しかける他のメンバーたちの姿を見て、なんだか誇らしげな顔をしていた。
 
 もしかしたら、この医療・福祉という仕事は面白いかもしれないな、とその時思った。人は何かしらのきっかけで変わることができるのだ。その人間の持つ可能性のお手伝いをする仕事に深く興味を覚えた。
 
 翌日、そのセイシンホケンフクシシさんに、自分もこの業界の人になれるものなのか尋ね、なんでそう思ったのか話した。
 セイシンホケンフクシシさんは、頬を赤くし「給料は安いよ」と、笑いながら言っただけだった。
 
   *
 
……そういえば今日Bさんの就職が決まったよ、とあん肝を突き終えた頃に同僚が言った。どこかしら誇らしげな表情だった。
 その姿に、かつてのセイシンホケンフクシシさんが重なった。同僚が、本当にBさんは頑張ったんだ、と自分のことのように喜んでいる。
 
 他者のために喜べることは、数ある幸せのひとつではないだろうかと私は思う。
 
 やっぱり就労支援っていいですね、と私は言い、生絞りグレープフルーツサワーをふたつ注文した。
 
 だからなんでそこで生グレなんだよ、と同僚は笑いわれわれは改めて乾杯をした。
 
                                 了 
                                      
   ・参考文献:「手紙を書いてマスコミにPRする方法 新装版」P74~75
            著 坂本宗之祐 自由国民社(2016,新装版2023)


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