AIが奪うのは仕事それ自体ではなく、その楽しさかもしれない
ちょっとした思考実験です。
はじめに
生成AI活用の推進みたいな仕事をしていると、このような発言を耳にします。
「AIに頼りすぎると考える力が養われないのではないか」
その通りだと思います。
でも、過去に人類が発明した道具を振り返ってみると、すべて何らかの力を養わなくてよくするためのものではないでしょうか。
よく例にあがる自動車などの乗り物によって、人は足腰を鍛えて長距離を歩く必要がなくなりました。
その代わりに運転技術を身につけ、一方では、健康維持のためにわざわざ運動しています。
生活上で必要な「足腰」の鍛え方は、実際に長距離を歩くもよし、ジムに通うもよしですが、アスリートでもなければそれを仕事の時間ではやらないですよね。
同じように、「考える力」を養う必要があるなら、専用のトレーニングをしたら良いと思います。
極論ですが、仕事において「考える」ことがすべてAIによって代替されるなら、仕事の中で考える必要はないわけです。
「その行為が仕事上の価値を生み出しているかどうか」が問題です。
仕事の楽しさ
もちろん、私自身がそうなのですが、仕事は単に効率だけではなく、無駄やゆとりを楽しむ姿勢も大事、という考えもあります。
ただこれまでは効率的な方法が無かったから見過ごされていた「楽しさ」なのではないかと思ったわけです。
例として、私のような企画系の仕事を考えてみます。基本プロセスは以下の通りです。
企画のアイデアを出す
アイデアからストーリーを構想する
有用性、実現可能性などを調査する
構想と調査を資料にまとめる
資料をプレゼンし、決裁を得る
PDCAを回す
このプロセスには随所に楽しさがあります。
たとえば、色々なインプットをしていく中で新しいアイデアを思いつく瞬間、それらを他者とディスカッションし、発散しながらも形作っていく時間など。
関係性にはよりますが、当然、決裁者とのコミュニケーションにも楽しさを見いだせます。
しかし残念ながら、100%すぐでないとしても、上記のようなプロセスはAIによって代替可能です。
そして残念ながら、代替できるものはAIの方が圧倒的にコスパが良いので、合理的に(だけ)経営判断をすれば、代替を止める理由はありません。
楽しさは奪われる、奪われ続ける
ここで一つ考えておきたいのは、こういう議論って、「仕事が奪われるので、AIを活用する技術を身につけたり、新しいテーマに挑戦しないといけない」という結論に落ち着きやすく、まあそれはそうなんですが、ユーザーの本質的なニーズが変わらなければ、「仕事が奪われる」というより「目的を果たすためのプロセスの一部がAIによって代替される」だけだということです。
冒頭の例で言えば「考える」という仕事は無くならないわけです。人がAIを使ってそれを実行するだけで。
そう考えると、人が奪われるのはそのプロセスでこれまで感じていた「楽しさ」ではないかと思うわけです。
そもそも仕事は楽しいものではない、という考えは否定しませんが、つらく苦しくして、自分にとって金銭以外の何の価値もないものであるなら、早くAIで代替すべきなんですよね。
少なくとも私にとっては、AI活用が発展した先にあるのは、「AIによって楽しさが奪われ、人間が新たな楽しみを見つける、いたちごっこ」の世界です。
「AIが奪うのは仕事それ自体ではなく、その楽しさ」という前提で、以下のような問いを立ててみます。
今、自分が仕事の中で感じている楽しさは何か?
それはAIによってどのように奪われる(代替される)のか?
その上で新たに楽しさを感じられる領域は何か?
この問いは、3の次は2に戻り以降は飽きるまで繰り返しできます。
遅くとも2週目で頭痛がしてきますが、用量用法を守ればAI活用ワークショップ的なやつのアイスブレイクに使えるかもしれません。
人は楽しむことに集中したらいい
とはいえ当たり前のことですが、この問いは、効率を重視した仕事における話なので、時間と労力をかけても許される、趣味の領域では関係ありません。
使いたいところだけ好きにAIを使い、自分がやりたいことは自分でやる、という「経営判断」が許されます。
まさにこの投稿が良い例で、趣味丸出しだからこそ、私が生成AIの有用性を語りまくってるにも関わらず、生成AIを使わずに書いていても全く問題ありません。
仕事だったらいかに効率的に記事を書くかを考えないといけないところですが、今の私はそれを楽しめます。
なので、何か現時点の結論をつけるなら「仕事で楽しめる限り楽しんで、仕事が楽しくなくなったら趣味で楽しんだらいい」ってことです。
技術の発展によって人が苦役から解放され、よりやりたいことに時間を費やせるようになるのは昔から変わりません。
今後も似たようなサイクルが、先ほどの問いを裏に持ちつつ繰り返されるでしょう。
だったら、常に「考える」べきことは、「どうやったら楽しめるか」なんじゃないかと、思いました。
おわりに
特に振り返りはありませんが、関連して思い浮かんだことを箇条書きにしてみます。膨らんだら別途まとめたいと思います。
このnote投稿のような創作活動ならびに創作によるビジネスは特に生成AIによる「楽しさの代替」の影響が大きそう
自動運転も、仕事を奪うの文脈で考えられる。例えば長距離トラックの運転手、タクシー運転手などは仕事の何を楽しんでいるんだろう?
コミュニケーションの代替可能性は、「コミュニケーション相手を信頼できるか」どうかだと思う。AIに対する信頼度は、今の働き手世代より、「生まれたときから横にAIがいる」世代の方が高まるはず。そう思うと、経営のパートナーとして人間よりAIが選ばれる世界はあまり遠くない気がする。
現段階では、合理的にだけ考えてもすべてをAIに代替するのは難しい。技術的な面、人の許容の面、法律的な面、環境負荷の面。そういうものを乗り越えた「効率性」を議論していくのは現役世代の役割であり特権だと思う。