見出し画像

余話:伊弉諾尊の禊で生じた神々


徳島縣護国神社

先日、護国神社の宮司さんを表敬しました。
以前からお会いしたいと思っていた方で、私のふるさとの氏神さんの神官でもあります。私が剣道を再開した頃、少年剣道教室を閉じられたようで、人の巡り合わせは難しく、接点がありません。今回、牟岐の八幡神社の神官、榊さんつながりで、お話を伺うことができました。


徳島縣護国神社鳥居前にて中央、榊宮司・坂田宮司

徳島県と和歌山県の間には巾50km程の水道が横たわっています。その紀伊水道入り口に関所のように浮かぶ島があり、島内に當所神社があります。伊島沖で近代艦隊決戦が初めてあったことでも有名です。


椿泊、燧崎から見た伊島(舞子と蒲生田岬の間に浮かぶ)

このお社、坂田宮司さんのかまいの神社でもあります。



伊島、當所神社



「この當所神社がいつ頃からあるのか、また、そのご祭神は何時頃からお祀りしているのか?」 これが私の質問です。

返答として、伝承によっても確認できていないとのことでした。かなり古くからあると思われるとのことで、ご祭神もその時からだろうとのことです。


左の手纏から生じた三神を祀る當所神社は伊島にあります(手前の三島からなる島)

阿波古事記研究会の二代目会長、立石量彦会長が、伊島へ渡り當所神社を訪ね、ご祭神見て、カベヘラ(伊島の南東部の崖の名称)とは、左の手纏から生じた甲斐辺羅のことでは無いかと主張。対岸の阿南市大潟町には衵(あこめ)海岸があり、そこの断崖が「辺津」で、伊島の断崖が「奥津」と解せば、立石会長の推理はとても興味深いです。しかも、会員・請田氏によれば、和豆良比能宇斯能神(わずらいのうしのかみ)は一般の学者が提唱している、”わずらい+の+うし+の+かみ”(穢れた大王の神)ではなく、”わずらい+のうし+の+かみ”(穢れた着物の神)であると主張します。


衵(あこめ)海岸入り口

”のうし”は直衣で、(あこめ)であり、平安貴族の用いた中着です。よって、伊弉諾尊が黄泉の国から生還し、穢れた中着を脱いだ時に生じた神が和豆良比能宇斯能神ですので、こちらが正しいと思われます。二百年に一度のこの貴重な発見を掘り下げ本居宣長の不備を正すようにとアドバイスしておりますが、本人がすごい発見をしたという意識が無いようで、そのままです。これを学問的に掘り下げようという方いませんか? (^^ゞ

おとぎ話ともなっている、古事記・白兎伝承は、ウサギと鮫の数比べの話です。それを知った鮫が激怒して兎の皮を剥ぐというストーリーですが、日本にはワニは生息しないので、鰐は鮫のことだと国学者が解説しました。爾来、和邇(鰐)は鮫のこととなってしまいました。が、日本書紀に照らせば八尋和邇(やひろわに)が橘に居ると書いてあるではありませんか。小戸の橘湾と、伊島は目と鼻の先に位置します。


日本書紀 神代下より

大國主神の兄神が言うとおりに、汐で湯あみして山の上で甲羅干しをしていると余計にひどくなるというストーリーは、こんな風景から作りだされた神話かもしれません。ウサギの背中がパリパリと割れているように見えませんか?


明神山頂、峯神社の西側、巨石群

書紀を参照するならば、八尋和邇は、海賊(海神)の乗る古代の高速艇ということになりますね。この高速艇には、背ビレが高くついていたらしいので、手漕ぎ・帆船であった可能性があります。

この一連のお話を、ツーリングしながら語る動画を3年程前に作りました。ちょうど、Hiroさんというユーチューバーの目にとまり、紹介して下さったので、一挙にチャンネル登録者が増えて喜んだ記憶があります。歳月が流れ、Hiroさんも逝去され、とても残念です。

さて、宮崎県の海岸では、このような話を長く引っ張れませんが、徳島県の海岸だといくらでも、このような話を引っ張れるから不思議です?
そうそう、共通点は、竺紫の日向ですね。(両県ともに、東へ尽きた場所)
宮崎には、みそぎ池(記紀には池ではなく瀬とありますが(^o^)/ )や橘通り、神武東征の浜や、高千穂の峰(高千穂は出雲なんですが・・・)などはあります。考古学的には、西都原古墳群等もありますが、漁業においては後進で、どうやら八尋和邇が生息できる環境にはなさそうです。方や徳島では、橘湾などこれら一連の物語は徒歩圏内ですので、他府県の神話のようにジェット機やヘリコプターは不用です。(^^ゞ

では、興味のある方は、三年前の動画を鑑賞下さい。
「海神の本拠を走る」







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?