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鍼灸師。



28歳、会社員生活に別れを告げ
鍼灸の専門学校に行くことを決めた。

1年、2年とたち
最後の1年。(鍼灸の専門学校は3年間で、3年時に国家試験を受け、合格すれば晴れて鍼灸師として仕事ができる)

国家試験を受けるには、まず学校の卒業判定試験に合格する必要がある。

卒業判定試験3日前。
追い込みに追い込みをかける時期。

学校帰りに買い物に寄っていると母からの電話。
「お父さんが倒れて、痙攣して、今から救急車で運ばれる。身体が半分麻痺しているようだ」
きっと母も焦っていただろう。

3年生にもなればわりといろんな疾患の特徴も覚えている。
奇しくも、学校の授業で「脳血管障害」について学んだばかり。

色んなことを考えながら病院に車を走らせる。
着いたことを母に連絡すると
「脳出血」で今から緊急手術とのこと。

予後はどうなるの?後遺症は?
そもそも助かる?
頭のなかでぐるぐる考える。

手術は無事終わり、医師からの説明を聞いてしっかり納得できたことは今でも覚えている。

父に残った後遺症は
・運動障害 片側の完全麻痺
・失語症(両失語)
・高次機能障害

間近で見ていた身の感覚としては
後遺症のフルコース。
何より、両失語だったことでコミュニケーションはほぼ取れない。
(というより、とれてるのかとれてないのかわからない)

急性期病院からリハビリメインの病院へと転院した父。
コミュニケーションが難しいことも相まって転院から3か月程度がすぎてもリハビリでは全く変化が見られなかった。

鍼灸師の卵として父にできることはないだろうかと色々調べていた。
専門学校の教員の方に「醒脳開竅法」(脳血管障害の後遺症に対しての鍼灸のアプローチ手法の一つ)という手技を教えてもらったが、学生という立場に加え、病院内での施術は家族であろうと許可されることはなかった。(今考えれば当然だと思うが)

そして、父の担当の理学療法士の方から言われた一言。
「鍼灸師は僕たちから患者を奪っていく」

卒業目前の僕にとって衝撃的で、残念で仕方ない一言だった。
学生の時って
「鍼灸でなんでも治してやるんだ」
「こんなに素晴らしいものはない」
なんて理想ばっかりが見えてるものだから、余計に彼の一言は違和感しか覚えなかった。

「多職種の医療者が協力をして患者のQOL改善のために手を尽くす」
そのなかに鍼灸師は入れていないことを実感した。

発症から3年後、父は誤嚥性肺炎で亡くなった。

コミュニケーションが取れない中で生きていくのはどんな感覚だったのだろうか
生きるとは?
たくさんのことを考えた。

父の死は、僕にとって鍼灸師として働くうえで今でもベースになっている。

様々な研究をおこなってくれている先生方のおかげで、東洋の神秘ではなく科学的にわかってきていることも増えてきた鍼灸治療。

鍼灸の研究、そんな仕事の仕方に憧れた時期もある。
だけど、自分の手の届く範囲の人の日常生活の些細な悩みを解決していくことを選んだ。

僕は、自分の手の届く範囲の人に「小さな幸せ」を届けたい。

身体が楽になる
健康でいる

そんなことの積み重ねはきっと大きな幸せにつながると信じているから。

西洋医学も
東洋医学も
「医学」であり、医療である。

これから先、医療に携わる人たちが今よりもっと手を取り合って、お互いを認め合い、より良いものが提供できる世の中になっていくことを切に願う。

鍼灸師になって9年。
最初の想いに少しでも近づけてるかな?

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