(小ネタ)『「社会正義」はいつも正しい』は、フランクフルト学派陰謀論や、文化的マルクス主義陰謀論にどう言っているか

『「社会正義」はいつも正しい』は、「文化的マルクス主義陰謀論」の書か?

 批判者によると、『「社会正義」はいつも正しい』の著者リンゼイは、右翼の陰謀論である「文化的マルクス主義陰謀論」に染まっているらしい。文化的マルクス主義陰謀論は、フランクフルト学派を現代の進歩的運動、アイデンティティ政治、ポリティカルコレクトネスの流行に責任があるとし、また伝統主義保守主義のキリスト教的価値を、文化戦争により破壊しているとみなす*
これと大きく重なるフランクフルト学派陰謀論は、マルクス主義の理論家やフランクフルト学派の知識人から選り抜かれた精鋭たちが、西洋社会を転覆させつつあるとする*

「文化的マルクス主義陰謀論」批判者のポイントは、「フランクフルト学派」のアイデンティティ政治、ポリティカルコレクトネスへの影響力を誇大に見積もり、文化戦争の裏で糸を引く主体とみなすことは陰謀論だ、といった所だろう。

『「社会正義」はいつも正しい』におけるプラックローズないしはリンゼイの主張はどうなっているのだろう。Kindle版を「フランクフルト」で検索すると6件(本文に1件、注に5件)見つかるのだが、明らかに「フランクフルト学派」と「ポストモダニズム」を区別し、両者の「批判理論」の違いを指摘している。

〈批判理論〉 はしばしば、 マルクス主義による近代批判の手段として生まれた著名なフランクフルト学派に帰される。 その大半は、しばしば単に 〈理論〉、 あるいは 「批判的人種 〈理論〉」、あるいは「批判的食事療法学」 といったもっと特定の批判の〈理論〉的方法として言及されるポストモダンの批判理論とは異なる。 実際、 ユルゲン・ハーバーマスをはじめとするフランクフルト学派のメンバーたちの大半は、 ポストモダニズムに対して批判的だ。 通常 「批判理論」 と呼ばれている現行のアプローチは、ポストモダンの異形を指す傾向があるが、それは現在それらが学術界の大半を支配しているからだ。 「批判理論」 の意味の違いを説明した入手可能文献が下記。 James Bohman, “Critical Theory, " in Stanford Encyclopedia of Philosophy, ed. Edward N. Zalta (Winter 2019 Edition), plato.stanford.edu/archives/win2019/entries/critical- theory/.
[……]
ポストモダン〈理論家〉たちはフランクフルト学派の批判的手法、あるいは少なくとも批判的傾向を採用し、それを構造主義的文脈、とりわけその権力観に応用した。しかし「批判的」目標はそのまま残した。 [……]フランクフルト学派は〈批判理論〉のアプローチをはっきりと、マルクス主義者が行ってきた資本主義批判を超え、西洋文明がすべてであるという前提、とりわけ社会政治哲学と啓蒙思想一般としてのリベラリズムに狙いを定めて発展させた。ポストモダニストが、 覇権的権力構造 (アントニオ・グラムシから採った概念)があらゆる差異の様相を超えて存在し、 顕在化と最終的な転換を求めていることを強調して、社会秩序とその制度全体に目を向けたのがこのアプローチだ。

『「社会正義」はいつも正しい』(注)
427頁

要約すると、『「社会正義」はいつも正しい』は、フランクフルト学派の〈批判理論〉の「大半」は、応用ポストモダニズム〈理論〉とは関係が無いと主張する。しかしその上で、<応用ポストモダニズムの理論家は、「西洋文明がすべてであるという前提」および「リベラリズム」に対する批判を、フランクフルト学派から受け継ぎました>との立場だ。

「西洋文明がすべてであるという前提」批判と「リベラリズム」批判に、「ポリコレ」や「アイデンティティ政治」がどのくらい重なるのか定かではない。あるといえばあるが、大雑把な関係しか無い。

また『「社会正義」はいつも正しい』内の「フランクフルト」という語が出現する箇所全6件において、「ポリコレ」や「アイデンティティ政治」と「フランクフルト学派」の近しい影響関係を語る箇所は無い。「フランクフルト」という言葉は注に5件、本文に1件のみ出現する。本文の1件は次の文章だ。フランクフルト学派→新左翼/ニューレフト政治に影響関係がありましたとの主張で、これは思想史の常識に属する。

「初期ポストモダン思想家たちが知、事実、社会構造の理解を解体したのに対し、新〈理論家〉たちはそれを自分のナラティブに沿うように一から再構築した。彼らのナラティブの多くは、新左翼/ニューレフト政治運動の手法や価値観から派生したもので、この政治運動はさらにフランクフルト学派の〈批判理論〉の産物だった。」(56頁)

結論。『「社会正義」はいつも正しい』は、一般的な意味での「フランクフルト学派」陰謀論とは関係ない。

加えて『「社会正義」はいつも正しい』は、同書が批判する「応用ポストモダニズム」と、俗流の「文化マルクス主義」を区別している。

これらの反論について公正を期して言うと、何がポストモダニズムで何がそうでないかについて、 多くの誤解がある。 最も一般的なものは、ポストモダニズムをマルクス主義と混同して、それを「文化マルクス主義」 や 「ポストモダン新マルクス主義」と呼んでいる。 マルクス主義とそれを脱構築し たポストモダニズムには複雑な関連性があるが、この主張はたいてい単純にすぎるもので、「応用ポストモダニズム」が被抑圧者階級と抑圧階級というマルクス主義的な考え方を採用し、それらを人種、 ジェンダー、セクシュアリティといった他のアイデンティティ分類に応用していることを強調する。 これはうわべだけの相似だ。 前章で示したように、マルクス主義はポストモダニズムが否定した 「メタナラティブ」の一つだが、マルクス主義のアクティビズムで使うために生まれた批判的手法は温存され、拡大された。

『「社会正義」はいつも正しい』421頁

上記認識は、「文化的マルクス主義陰謀論」を批判する論者の認識とむしろ近い。

アドルフ・ヒトラーが首相となり、ナチスが政権を獲得した1933年以降は、フランクフルト学派に属する知識人の大半が米国に移り住むようになったが、米国での彼らの理論の広まりは、左翼の人々の間だけにとどまっていた。ただ、フランクフルト学派と批判理論は、学術の世界では相当の影響を有したというのがほとんどの政治学者の見解ではあるが、ポストモダンの思想家によってプッシュされている理論とはまったくの反対であり、文化的マルクス主義論を唱える者たちから「文化的マルクス主義の顕著な例」と頻繁に指摘されているのは、実際には、これらポストモダン陣営の人々である。
[……]
研究者のジョーン・ブラウンは、陰謀論者が言うような意味での「文化的マルクス主義」は一度も存在したことがなく、また歴史上存在した思想の学派で陰謀論者が主張するようなことを考えた学派はないと指摘している。また、フランクフルト学派の学者たちは「批判理論家」と呼ばれているのであって、「文化的マルクス主義者」と呼ばれてはいないと述べ、陰謀論で主張されることとは逆に、ポストモダンはマルクス主義にはやすやすと近づかないし、敵意を示すことすらある、と明確にしている。

「フランクフルト学派陰謀論」と、その検証

というわけで、「文化的マルクス主義陰謀論」や「フランクフルト学派陰謀論」的な勘違いを『「社会正義」はいつも正しい』は認識しており、それらから距離を取っているように見える。

ジェームズ・リンゼイと「文化的マルクス主義陰謀論」・「フランクフルト学派陰謀論」

しかしこれで終わらない。ノア・スミスの記事では、ジェームズ・リンゼイが「社会正義や批判的人種理論、あるいは彼が「意識高い系」と互換可能な形で用いている他の用語は、フランクフルト学派やグラムシのようなフランクフルト学派にゆかりの知識人に作られたとみなし、しきりに名指している」と指摘する。

ジェームズ・リンゼイ:「私は30年間批判理論を学んできたが、文字通り『批判的社会正義』と自称して、フランクフルト学派、ポストモダニズム、文芸批評との繋がりを述べているこの運動が、批判理論に起源があるとは言えない」というのは、ありえないと言わざるをえない。

ジェームズ・リンゼイ:
どちらも、文化革命と、革命的意識の発展/覚醒に焦点を当てている。フランクフルト学派の文献と意識高い系〔の言説〕の双方に現れる「批判意識」の必要性には、類似性がある。それが実際に実現した中国で何が起こったかを思い出そう。何千万人もの命が失われたのだ。

ノア・スミス「意識高い系の起源に関する考察・後編」(2022年9月10日)
https://econ101.jp/thoughts-on-the-origins-of-wokeness/

『「社会正義」はいつも正しい』と違い、フランクフルト学派に攻撃的な気もする。しかし整合する範囲内の気もする。
またリンゼイを極右・反ユダヤ主義として批判する記事によると、リンゼイは今では文化マルクス主義という言葉の使用に、抵抗が無いようだ。リンゼイは、「"文化的マルクス主義"といった言葉を頻用する」「Lindsay氏でさえ元々、Cultural Marxismはオルト・ライト用語だから避けていた様ですが、今では堂々とCultural Marxismという語を使っています」。

一つの仮説として、今のところスキャンダルが上がらず空気なプラックローズと<極右化>が指摘されるリンゼイの見解の差異が、『「社会正義」はいつも正しい』と、リンゼイのツイートとの違いとして現れているのかもしれない。

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