ためらいなくマスクを外せる人が羨ましい

私はいまのマスク生活に安心していたし、この先もずっと安心していたかった。でも、それはそれで怖いなとも感じていて、「職場や友人との予定の際は外すけど、人混みや電車内ではマスクをしてもいい」というマイルールを設けてマスクを使いこなしているつもりでいる。(もちろん、推奨される場ではする。)

このマイルールは、マスク本来の役割である感染予防とか対策としてではなくて、完全に心理的な防御壁としてのものである。あまりにも頼りない薄っぺらいけど、私を守ってくれる頼もしい壁だ。

幼い頃の私は、自分の容姿をマイナスに捉えたことはなかった。当時は周りに比べて背も高かったし、身体も大きかった。発育もよかった。
でもそれが特別な人間のようにも思えて、嫌いじゃなかった。周囲との違いが、当時の私には心地よい違和感だった。顔も自分では気に入っていた。たしか。

それがあいまいな記憶になっているのは、その後から今このときに至るまでに塗り替えられた、ううん、悪意がこもった他人の評価をそのままに受け取り、自分で塗り替えてしまった感覚の数々が原因だという自覚はある。

小学校、中学校、高校、大学、と少しずつ世界が広がり、世間が膨らみ、自分が大した人間にはなれそうにないことを実感していく日々のなかで、「私の顔は世間ではたいして可愛いと思われないのだな」とも、じんわりと気付かされた。
この言い方はあまりにも被害者としての演出をしすぎかもしれないけど。

高校生になってスマホを常に持ち歩くようになり、画面の中のかわいい女の子と自分の違いに頭を悩ませる日がくるなんて、小さい頃の自分は夢にも思わなかったんだろう、と自分で自分を損ないたくない気持ちと戦っていた記憶がある。

悲しいけどそれは今も変わらない。
日によれば、思春期のときよりも自分に着飾る価値を感じられない日もあるし、「悪くないな」と思えてせっせとイヤリングを選ぶ日もある。

見た目であれ、内面であれ、どんな部分であっても、自分のことを自分だけで肯定して可愛がるのには限界があるな、というふうに客観視ができたのも20代に入ってからのことで、客観視ができたとて、私の中の澱みたいなものはまっさらに消えてなくなることはない。

そんなしょうがなくてどうしようもない私の日々だけど、少し強くなりたいな、と思うようになって、冒頭のマイルールを採用した。  

自分の容姿に悩みを抱えたことのない人はいないと思うし、そしてその多くは他人との関わりの中で発露している。

目が小さすぎる、大きすぎる、背が低い、背が高い、太っている、痩せている。
傍から見れば贅沢に思えるような、そんな些末(だと捉えられるような)な事柄でも、本人からすれば玄関から一歩外に出るのすら躊躇うような足枷に変換される。
この問題の答えは出ないし、ずっとこれから先も悩んでいくんだろうと思う。
それでもなんとか私は私を乗りこなしていきたいな、という決意表明がしたかった。

そもそもなんで私は悪意のこもった言葉ばかりカウントして、正面から受け取ってしまうんだろうな。
どうせなら正しく傷つきたいな。

おわり。

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