ココアじゃなくて、母の作ったココアを、母と飲む空間が好きだっただけ
もう久しく飲んでいないココアを、久しぶりに買ってみた。
母との距離感を掴むことが、昔から下手くそで、諦め、切り捨ててしまった私は、幼い頃母が気まぐれで作ってくれるココアが好きだったことを思い出した。
ココアの口当たりの良さとか、たまにチョコを入れてもらえる特別感とか、そのあたりを子どもらしく期待して、最後の一口まで惜しくてたまらなかったような記憶があったのだけど、
今思えば、母が作ってくれたココアを私が飲む間の、母と私との空間が好きだったのだろう。
甘すぎるくらいのココアを飲みながら、私は母に私の話を聞いてほしくて色々と話しかけた。
たまにチョコやココアの粉が固まっていて、私はそれをスプーンで掬って、惜しみながら味わう。
なんの変哲もない日常だった。
大体の場合、とりとめのない私の話に飽きてしまった母か、母に仕草や言葉遣いを叱られてへそを曲げた私が、ダイニングテーブルをあとにするまで続くその時間に、私は未だに執着しているようだった。
もう戻らない時を惜しんでしまう。
美化しているんだろう。弱っているのかもしれない。
盆と正月なんて二大めでたいイベントであるはずなのに、この時期はどうにも調子が狂って感傷に浸ってしまうな。
コンビニで買うココアは均等に甘くて、チョコや粉末の塊もない。
それが何だか、ちゃんとさみしい。
こうも暑い日が当たり前のように続くと、肌寒い季節が恋しくなる。
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