羨ましいの根源を探る

子どもの頃から漫画が好きだった私は、大人になった今でも、漫画に救われ続けている。

小さい頃も、大人になった今も、あの子みたいになれたらいいなと思うヒロインがいて、私を励まし続けてくれている。
気に入ったセリフを書き写したノートは、日々の救いになっているし、選択に迷ったときの標にもなっている。

私が好きなヒロインは与えることを惜しまない。
私がかつてこうしてもらったから、次は私が与えたい。
健気で尊いエピソードに、思わず息を呑み、どうか彼女の願いが報われますようにと心から応援したくなる。

ただ、私は何もかもうまくいかなかったとき(今もあまり状況は変わっていないけど)、彼女が登場する漫画を読むことができなくなってしまった。続刊が出ていても、サブスク代が無駄になることが分かっていても、手を伸ばせなかった。

彼女がまぶしくて、それに比べて自分が情けなくて。きらきらしている物語を遠ざけることで、自分を保とうとしていたのだと思う。

年齢を重ねるにつれてより強く実感するようになった自分の要領の悪さや、要領の悪さからくる余裕のなさ、それを誤魔化すために発する情けない言葉の数々に、息がうまくできなくなった。
それに打ちひしがれる日々の中で、いつだって自分を失わない、内面も外見も美しい彼女と比較して落ち込んで、物語を純粋に楽しめないことが怖かった。

見守りたい気持ちと並行に、羨ましさも痛感した。 
ここまでまっすぐに、強く美しくいられることが羨ましい。
そして、羨ましく思ってしまう自分自身がなんだかいやらしくて、悲しい。

そもそも羨ましいという感覚を持っていることを自覚するのが怖かったようにも思う。何に羨ましさを感じるのかということが、その人の劣等感とか汚い感情みたいなものと直結している気がするから。

私の場合、純粋な外見上の美しさだけではなくて、その人の内面に譲れない芯のようなものを感じて、さらにそれが努力によって積み重ねられてきたものだとわかると、憧れの対象になると同時に、羨ましさをぶつける対象にもなってしまうようだった。迷惑な話だ。

人との衝突から逃げず、その場しのぎの言葉で誤魔化すことはなくて、徹底的に向き合い、自分の言葉で寄り添って、共に生きようとする。自分が変わることを恐れずに、着実に目の前の努力を重ねられる人。

私は彼女みたいになりたくて、昔から彼女を応援してきたのに、そうなれないと勝手に自分を見限ってしまって、見限ったことに気づきたくなくて、傷つきたくなくて、無意識のうちに遠ざけていたのだ。

ようやくこの自分の劣等感を文章にできるようになったごく最近、私が感じる劣等感は、別に持っているままでいいのだと思えた。 

そういえば彼女も、自分の歯がゆさに涙していたシーンがあった。私が都合よく切り取っていただけで、彼女も普通の女の子だった。泣いて、怒って、それでも笑顔でいたいから強くあろうとしていた。相変わらず私は、見たい部分しか見られてなかった。

強さも美しさも、外見だけにとどまらない彼女への羨ましさは、なかなか消えない。今後も完全に取り去ることはできないだろうけど、一生憧れ続けていたい、とも思えるようになった。

というかこれだけのめり込める物語があること自体が、私の人生の中で大きな救いなんだろうな。

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