「分割された小さな目標」の効用と副作用

超絶卑近な話をするのだが、最近腹筋ローラーを再開した。いわゆるコロコロである。僕が最初にこれに取り組んだのは10年は前のことな気がするが、近年こそサボっていたが、意外と毎日これをする生活を何年も送っていた。といっても体に負担をかけないようにするため、膝立ちでコロコロしている。膝をつけない「立ちコロ」は、できなくはないが、負荷が強すぎるので、継続重視で膝コロである。膝コロでも、したことがない人がやってみると、翌日に寝ている状態から起き上がれないほどの腹筋の痛みを感じるようである。僕は慣れたのでもうそういうことはない。何ヶ月か継続しておけば、1〜2ヶ月休んでから再開も腹筋が痛くなることはない。今回の再開時も、最初だけ少し痛かったが、2日後にはその意味での痛みなどは感じなくなった。

普段は腹筋ローラーを30回ほどするようにしている。毎日継続することが重要なので、面倒なときは10回でいいからやる、とかがいいと思う。実際かつてはそうしていた。他方、一日忘れて「あーー、忘れてしまった!」と落ち込むことには百害あっても一利もないので、一日忘れたら何食わぬ顔で翌日からまたやればいいのであって、習慣化は「歯磨きのように毎日するようにする」のがよいとよく言われたりするが、僕にとっては「別にちょっと忘れてもよい」というテキトーさこそが重要だと思う。無意識の習慣にできるのが一番楽だろうが、そうできない人にとって「無意識の習慣」化への憧れはやはり害悪でしかない。禁酒禁煙などにはスリップがつきまとうので「完全に断つ」ことが大事とされているし、かなりの程度理解できるが、場合によっては「一日くらい飲んだり吸ったりしてもよい」というテキトーさがやはり大事だと思う。何が自分に合っているかは人それぞれであり、望む結果が得られることを重視して方法を選んだりカスタマイズしたりしなければならない。これは、言い換えるならば、「自分を赦す」ことが極めて重要ということでもある。自分を赦せなければ、逆説的に、変わろうとする前に逆戻りである。努力を放棄してぬるま湯に浸かろうとしているように見えるかもしれないが、逆説的に、自分を赦せないばかりに、よりひどい境遇に自分を追い込むのである。

困難は分割せよ、と言ったのは確かデカルトである。ピラミッドや万里の長城といった巨大な建築物を組み立てよと言われたら、作業者たちは絶望的に途方に暮れることになったはずだろう。それらが計画的に建築できたのは、作業端末となる人々が小さなブロックに分けられ、小さな目標を達成することを目指すように整えられていたかららしい。人々は巨大なものが出来上がるとは思っていなかったかもしれないが、小さなブロックの組み立てを繰り返しているうちに、いつしか、歴史に残る巨大な建物が完成していた。

これはコツコツと積み上げることの破壊力を示してもいるのだが、同時に、人間の心理における「(分割された)小さな目標」の効用を示している。分割されたということは、その全体が巨大なものであるという前提がある。このような巨大な目標なく毎日をコツコツ過ごすこともできるだろうが、そのタイプのコツコツが大きく花開くには偶然の要素が強く介入してしまう。毎日ピアノの練習をすれば少しずつ上手くなっていくだろうが、最終的に歴史的ピアニストになっているかといえばほとんどの場合そうではないだろう。同じコツコツでも、事前に分割されたコツコツであることが重要である。

目標を困難に置き換えると冒頭のデカルトの話になる。目標は必ずしも超えなければならないタスクとは限らないが、困難は逃れがたいものとして立ち現れる。目標は自由に設定できるが、困難は必ずしもそうではないことばかりである(だからこそ困難なのだが)。そういったものに対処する上でも「小さく分割」することが重要だというのは、誰しもわかっていそうなものであるが、意外と現実に処理しようとすると忘れるものである。

そこで腹筋ローラーの話になるのだが、意外と30回をやるのも大変である。15回くらいのときに「まだ半分もあるのか」と思ったりする。だが、ある発見をした。「5回」を目標にローラーをしていると、非常に楽に30に到達する。5になったときには、10まで残り5であり、10になると15まで残り5である。20まで行くと、30まであと10で、25までやったら終わりまであと5回である。5を目指してやるときとそうでないときで、心理的負担に全く異なるものがあった。目標を小さく分割した結果である。
このような「(分割された)小さな目標」の効用はあらゆるところに見いだせるだろうから、創意工夫して、何か目標や困難が生じたら、どうにかして小さく分割することを考えたい。

ところで、この逆パターンについても触れておく。つらいものは小さく分割すると対処しやすくなるが、逆に、分割すべきでないものを迂闊に分割するとひどいことになる。

仮に、嫌なイベントーーたとえば嫌な人との会合などーーが1ヶ月後にあるとして、そこまでの日数をカウントダウンなどはじめると、あっという間にその日に向けて時間が加速していく。このイベントが、たとえばライブのような楽しい内容であったとしても同様だ。一日千秋の思いかもしれないが、実際にはそこに向かって時間が加速していく。イベントが早く来てくれて嬉しい、と思う向きもあるかもしれないが、到達したらそのイベントは終わってしまう。そして、楽しいイベントを待つという尊い時間がどんどん削られていく。目標点がプラスかマイナスかよりも、その過程をカウントダウン(分割)するという営みに危険性がある。もちろん、早く時を経過させたいならぜひとも使いたい技であるが、忙しい社会人にとっては、むしろ「一日をもっと長くしたい」という気持ちの方が強いのではないだろうか。

「百日後に死ぬ◯◯」のような毎日更新のコンテンツを想定すると、今しがた更新されたものを見たばかりなのに、早く続きが見たいという気持ちになって、24時間を長く感じる、ということがあるかもしれない。これは、その一瞬においては確かにもどかしく長さを感じるのであるが、このコンテンツに親しんでいると、一日は長いのに百日が短くなるという逆説を体験することになる。それは百日を一日の経験に切り刻んで、全体の長さを緩和しているからである。カウントダウンという表象は、当然ながらその強烈な後押しであり、そしてこの現象の象徴でもある。

時をゆったりと過ごしたいのなら、未来の一点に向けて時間を分割することを避けるべきだろう。しかし、仕事をしている限りはおそらくそのような分割を避けることができない。だからこそ、プライベートではせめて時間に追われることがないようにしたい、と思うことは自然なことだから、時間に振り回されない趣味を見つけることはとても尊いことだと思う。そして、仕事では時間(納期)から逃れることがおよそできないのだから、そうであるならば、投資する「コツコツ」を、目標なき蓄積ではなく、「(分割された)小さな目標」への道として設計するのがよいと思う。

自分がそういうことをできなかった人生だったから、これを読んで、まだそうしてこなかったという人がいたら、そのように考えることができるのだ、という選択肢を伝えておきたい。

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