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猫の貴族

猫の伝来は飛鳥期とも奈良後期とも言われていたが、近年ではそれ以前の弥生時代には入ってきたとも言われる。時代は諸説あるが、伝来の理由はおよそ「鼠から大切なものを守る」ためであった。米などの食糧、貴重な書籍を守る動物として、大陸から伝来した。そのお仕事猫が、飼い猫としてメジャーになるのは時代が下って鎌倉時代、「金沢猫」の登場であったとされる。名の由来は横浜にある北条氏の書庫「金沢文庫」。ここで飼われていた猫の子孫が全国に広まり、「金沢猫」と呼ばれるようになった、……とはいうものの眉唾な部分もある。
伝来の猫を「唐猫」といい、在来の猫を「山猫」という。この二種のミックスが「日本猫」である。ここでいう猫は唐猫もしくは日本猫のことである。 日本猫の頒播以前の平安時代には、貴族のあいだで唐猫が好んで飼われていた。にもかかわらず、 猫はあまり文章に描かれていない。『枕草子』「うへにさぶらふ御猫は」のくだりで登場する「命婦のおとど」は少ない中の一つである。この猫は書籍守として飼われているのではなく、明らかに愛玩を目的としており、馬の命婦が世話役を仰せつかるほど大切に飼われていた。帝のひざの上で昼寝などするからには人間同様、昇殿に必要な位階を与えられた、まさに「猫の貴族」なのである。(猫ばかりではない。 その敵方の犬「翁丸」も位階を与えられている。いまだに名に残る「五位鷺」も、笏の材として知られる 「一位(櫟=いちい)」もそうである。また、祇園祭の長刀鉾に乗る稚児も、天覧のさい、内裏に入らねばならなかったため、事前に「授位」されることとなっている。)
この御手飼いの猫は黒猫であったらしい。日本の文献で始めて登場したとされる、宇多天皇の御時に献上された猫はすべてが黒い猫であったという(『日本霊異記』を猫の初出とする説もある。ただこの猫も「狸(ねこ 中国はこう書く)」と書いているため、おそらくは山猫のことであろう。)。同じ『枕草子』の中に「猫は」とあり、「背ばかり黒く、腹の下が白い」猫が良いといっている。どうやら宮中で飼われるにはすべからく黒いもので、茶トラや三毛は昇殿できなかったとみえる。とはいえ、野良猫が多くあったわけではないので、猫が貴重なペットであったことには変わりない。 庶民が猫を飼うものと知り、一般化するにはやはり金沢猫の登場を待たなければならない。


『鳥獣戯画』の甲巻のなかに猫が描かれているのを見たことがあるだろうか。この猫は猿の僧正が蛙の仏に向かって経を詠んでいるうしろで、烏帽子を被り扇を翳している。鳥羽僧正の作とされるこの巻は平家の隆盛期に描かれ、この時期に「猫」といえばアノ人物がモデルなのかもしれない。
猫間中納言、藤原光隆(1127-1201)。『平家物語 猫間』で、院の密命を請けて木曽義仲に会いにいったアノ人物である。 木曽義仲は「猫間殿」と呼ばれていた使者の光隆を「猫」扱いをし、山盛りの膳を出し「猫は物を残すというが、猫殿は残さず食べよ。」と強いるのである。ここでの光隆は高慢不遜の義仲を強調するために物語に利用されている。まあ、実際の義仲は院にも平氏にもなびかない心を顕示する意図があって、猫のように院に擦り寄る光隆を揶揄してやったのであろう。では実際の光隆はどういう人物であったのか。 光隆の父は正二位権中納言(!?)清隆、母は参議藤原家政の娘、近衛天皇の乳母従二位家子。乳母であった母のひきで出世していったというと可哀想だが、実際人生の前半部はこのコネが大きく働いていたのは間違いないし、父の清隆もそのおこぼれに預かっていたことはいなめない。このあと、平治の乱(1159)に連座したことと平氏の台頭により、約束されていた高位は望めなくなり、光隆は長い長い不遇を託つこととなる。清盛の出世を指を咥えて眺めつつ非参議に甘んじ、参議になったかと思えばすぐに散位し、どうにも出世ができない。ここで人生の方向転換をしたらしい。 平氏隆盛のとき、光隆の怪しげな動きが頻々としてくる。というより、あまり表立って動かなくなる。自分は公を半ば退き、院の相手をして腑抜けてみせるが、息子を侍従とすることで廷内には繋がりを残し連 絡を密にしていた。これを吉川英治は、光隆が法皇の密偵として働いていたためであるとして、作中では実に老獪な姿に描いている。猫という名にごまかされるとトンでもない事になるわけで、義仲も光隆に軽重を量られているとも知らず、剛直な態度を示したため憂き目に遭ってしまう。 光隆はあの頃の平氏や院の顔色ばかりをうかがっていた公卿とは違っていたらしい。猫の目というが、 くるりくるりと主を代える同輩を尻目に、見事に先を読んでいたのだ。だからこそ乱世にあって、院の腹心 として74歳の天命をまっとうできたのであろう。 そう、侍従として廷内に残っていた息子は長じて藤原俊頼に師事し、のちには定家と双璧をなす時の寵児となった。猫の子の名は壬生二位、藤原家隆。


日本最大のカルデラ火山・阿蘇山の中央火口丘「阿蘇五岳」。その中に「根子岳」という山がある。「猫岳」とも書くこの山には古来より猫の王が住むとされた。大晦日の日。阿蘇の山麓の猫はうち揃い、猫の 王のもとへ年賀に行くといわれている。そのため近隣の村では大晦日に猫は一匹も見ないそうだ。この 猫の王は二丈ばかりの大きさがあり、人のように振舞う。 また、大柄な猫が消えると「猫のお山に修行にいった」といって諦めるという。この猫は六十日ばかり修 行を積むと「経上がり」、妖力を身につけるとされ恐れられた。その印は、口が裂けて尾が二股に割れ る、まさに猫股そのものになってしまうのである。(この大晦日に集まるというのはどの動物にも共通した ことらしい。阿波の狸や東京王子の狐がいい例である。また尾が割れるのは「九尾の狐」や「鵺」など妖怪の特徴でもある。)


一転イギリスの「猫の王」の話。伝説では、猫の王国の入り口は廃墟や洞窟、樹の虚にある。王は宮殿に住み王妃や司祭、国民が生活する人の世界と変らない都市が存在する。王は牛と見まごうほどに大きくなり、夜な夜な猫を嗜虐する人を襲い、王国に連れ去るとされた。このての猫を「ケットシー」という。 これはイギリスでよく語られる説話である。 ある夜、道に迷った旅人が闇の中に一つの明かりを見つけ出した。助かったと思いそれを頼りに進んでゆくと、大きな洞窟に行き着いた。旅人はいぶかしく思い、中の様子を覗っていると、大勢の人が箱を囲んで何かをしている。よくよくみるとこれは人ではなく、みな猫で、喪服であろう黒い衣装をつけ、棺桶 にむかい慟哭しているのであった。どうやらこれは猫の葬儀らしい。棺の上には金の冠があり、この猫たちの王が死んだのを悲しんでいると見えた。 旅人は不思議なものを見てしまったとあわててその場を離れ、しばらく森を彷徨っていると今度は違う ほうに明かりが見えたので、それを頼りに歩いた。果たしてそれは宿屋の明かりであった。旅人は一夜 の宿を頼み、宿屋の主人に先ほど見た不思議な出来事をつぶさに語った。すると暖炉のそばで寝ていた黒猫がむくりと起きだし、
「大変だ、王位を継承しなければ!」
と叫んで飛び出したきり帰ってこなかったという。 何でもその猫は猫の王子であったのだと、あとで知れた。


また戻って日本。スキーをする方なら福島県の「猫魔」の名を一度は聞いたことがあるだろう。このおど ろおどろしい名にはこんな由来がある。 耶麻郡桧原村に住む穴沢善右衛門という男は剛の者で知られていた。奥方を連れて磐梯の湯に出か けたときのこと、宿の者と沼に釣りに行くといって奥方を宿に残し、山裾を下りていった。その日は面白いように釣れたので、日の暮れるのも忘れ夢中になっていると、はや帰路も暗くなり、仕方なくその夜は沼畔の小屋に泊まっていくことにした。釣った魚で食事をしていると、小屋に善右衛門の乳母がひょっこりと 顔を出した。おかしなこともあるものと思いながらも魚を差し出すと、乳母は受け取る先から狂ったように食べた。ますます怪しいと見た善右衛門は昔語りを乳母にしてみることとした。しかしどうもつじつまが合わない。これは魔が差したに違いないと一刀の許にこれを切り殺してしまうと、果たして乳母と思ったものは大きな黒猫であった。 夜も明けやらぬうちにこの小屋を引き払い宿に戻ってみると、奥方が昨夜から行方が知れないという。 山狩りをして四方探したところ、断崖に生えた老木の梢の上で、奥方は無残な骸を晒していた。近くにいた男に頼み、遺骸をおろそうとすると、
「その腰のものをくれるのなら助けてやろう。」
という。善右衛門がこれを断ると、男は豹変して、
「われこそはこの磐梯の主、猫王なるぞ。昨夜わが妻を殺されし恨み晴らさんと、汝の妻をこの歯牙にかけた。腰のものを渡さねばわぬしも食い殺してやる。」
と叫び、正体をあらわした。そして遺骸を咥えるといづ方にか消え去ってしまった。 善右衛門は村人達をあつめ、再び山狩りをすると洞窟に潜む猫王と遺骸を見つけ出した。そこで善右衛門は鞘を払うと一閃猫王を切り倒し、奥方の屍体を取り戻した。以来、猫を斬った山を猫魔ヶ嶽といい、善右衛門の刀・貞宗は猫切丸の異名で呼ばれるようになった。


シャルル=ペローの書いた童話「長靴をはいた猫」。この物語は人口に膾炙しているが、読み直してみると意外と読み落としやあやふやなところがあるもので、いちいち感心させられる。 まず発端は粉引きが死に、三人の息子に遺産を分けるところからはじまる。長兄は粉引き小屋を、次兄は驢馬を、そして末っ子は猫を貰う。末っ子は、この猫では肉を食って、皮でマフラーでも作ることしかできないと嘆くが、猫は末っ子をいさめ、長靴と頭陀袋をくれればこの分け前も悪くなかったことが分かる という。末っ子は言われた通りの物を用意すると、次の日から猫はこの頭陀袋でウサギや野鳥を捕らえては、この国の王様に「カバラ伯爵からの贈り物」と称して献上し続けた。 二ヶ月ほど経ったある日、末っ子を連れ猫は近くの川に行くと、
「こうしていれば運が向いてくる」
といって、裸で川に入るように言う。ここに領内の散策に出た王様の行列が通りかかると猫は
「カバラ伯爵が溺れた」
と叫ぶ。王様は川の中の末っ子のことを、今までウサギなどを届けてくれた伯爵と思い込み、助けると立派な服を与え一緒に散策をすることを提案する。猫は行列の先触れをいたしますといって先回りしては、農夫たちに、 「王様が尋ねられたら、この土地はカバラ伯爵の土地と言わないとひどい目に遭うぞ。」 と脅して歩いた。王様が農夫に
「誰の土地だ」
と尋ねるたび、
「カバラ伯爵様の」
という声が返ってくるので、その広さに王様は驚いてしまった。 最後に猫はある豪勢な城に先回りすると、ここの主の人食い鬼に謁見を申し出る。鬼は愛想よくこれを許し、広間に通した。
「あなたは何でもライオンや像に変身できるそうですが、本当ですか。」
「本当だ、見せてやろう。」
鬼は身を震わせライオンに変じた。猫は飛びあがって驚き、こう続けた。
「私は信じられないのだが、あなたは鼠のような小さな動物にもなれるという。しかし、それは無理でしょうな。」
「よし、疑うなら見せてやろう。」
鬼は身を震いたちまち鼠に変じた。これを息も置かず、猫は食べてしまった。
その頃、王様一行は城門の前にさしかかっていたが、
「ようこそカバラ伯爵の城へ」
と猫が声をかけたので、王様はこの城の立派さにも驚いてしまった。 王様はこのカバラ伯爵(末っ子)を痛く気に入り、美しい姫の婿に望み、猫も貴族となって退屈しのぎにしか鼠を捕らなくなった。 そして最後にこの話の教訓が書かれている。

父から子へと受け継がれる ゆたかな遺産を当てにすることも 大きな利益には違いないが、 一般に、若い人たちにとっては 知恵があったり世渡り上手であったりするほうが貰った財産より、ずっと値打ちがあるものです。


これは貴族ではなく殿様の話。徳川家が源氏の正統な(傍系もなさそうだが)流れを汲んでいない事は よく知られている。しかし、将軍になるためには源氏の血筋がどうしても必要となる。こんなときどうするかというと、「系図買い」をする。どこぞの家の系図を買い取り、系図を書き換えて(系図上で)自分の家と血縁を作ってしまい、意中の血筋に成り切ってしまうのだ。家康は都合三回系図買いをしたと言われているから、どうも出自は怪しいらしい(柳田國男氏は家康の祖先は上野国世良田にある長楽寺の僧であ ろうと推測している。)。
これは徳川家康が関東入部の時のこと、後北条に領地を追われて上野国桐生の竜泉寺に退去していた岩松守純が息子を連れ、川越城で家康に拝謁した。岩松家は源氏の正統とされる新田家と足利家の両家の血筋を引く名家であったが、家臣の横瀬(のちに由良)家に地位を簒奪され、由良家が北条に従属したのちも冷や飯を食わされていた。守純は旧領回復を願い出たのだ。そこで家康はその代わりに岩 松家から系図を買い、源氏の家系を手に入れようとした。ところが守純は頑としてこれを拒否、うまくすれば万石取りの大名になるチャンスを逸した。家康は怒り心頭、守純を蟄居幽閉を命じ、再び系図を渡すことを迫った。しかし、仕舞いまでうんと言わなかったという。本家の新田氏が滅び、新田の名を預かっていた守純の気骨が覗える。 時が移り、家康が江戸に開幕すると、守純に上野国世良田(ここが徳川発祥の地とされる)に近い、岩松にわずかな領地を与え(二十石であったと言われる)、扱いは万石の大名並としたのである。家柄がいいのと、同じ源氏の流を組む親戚である(ことになっている)ので邪険にはできない、苦肉の策であったのだろう(四代将軍の頃やっと百石加増され百二十石となる。これは旗本としても最低ラインの給料である。)。江戸期の半ばに書かれた、「江戸に二つとないもの」番付で西の関脇に「百二十石 乗物 袋傘」 とみえる。大名とは万石取り、それがたった百そこそこの石高の領主が、最高の格式の駕籠に乗り、これまた太守にしか許されない「袋傘」を持たせて行き来するのだから、江戸っ子の奇異の目は免れなかったであろう。 家格は大名並み、でも収入は雀の涙。岩松の家では何とかしてこの状況を打破しなければならなかった。そこで考え出したのが「猫絵」を配布であった。この周辺は大変養蚕が盛んであるが、この蚕を食い荒らす鼠には手を焼いていた。この鼠封じのまじないとして、殿様手づから描いた猫の絵を呪符として売 ろうというのだ。守純の五世孫義寄の頃から始まるこの猫絵はよく効くと飛ぶように売れたという。以来、 猫絵は岩松の殿様の内職となり、これで逼迫していた家内はだいぶ潤った。 時代は流れて幕末、義寄から三代孫、俊純の許に一人の男がやってきた。千葉の佐倉から来たその男は、新田の正統な後裔たる俊純に、帝を戴くわが軍の指揮官となって欲しいというのだ。俊純はさんざ悩んだ挙句これを断った。男はたいそう残念そうにその場を立ち去ったという。数年後、この男は偽官軍の汚名を背負い斬首された。この男こそ、赤報隊隊長相良総三である。
話がどうも脱線をする。元に戻そう。俊純も猫絵を描いた。明治となり、大名の多くが貴族となり叙爵さ れるなか、俊純のもとには何の音沙汰もなく、相変わらず猫絵で糊口を稼がねばならなかった。そんな 明治十八年のこと。折からの「南朝を正統とみなそう」という気運が高まってきていたのに乗じ、「正統な新田の後裔」として俊純が上申書を提出し、叙爵を願い出たのだ。時の大臣、井上馨は「南朝の忠臣である新田を叙爵すべき」とこれを押し、見事俊純は「男爵」の称号を得ることとなったのだ。(実はこれには裏がある。井上馨の奥さんは俊純の長女なのだ。) 

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