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高校球児と丸刈り頭

今年の高校野球は試合の結果もさることながら、高校生のヘアースタイルの話題が全国レベルのトップニュースという異常事態をみせた。うだる暑さでとうとう一億総員頭のネジが緩み始めたのか?これだけ国民が大騒ぎするというのが、世間が「ヘアースタイルを気にしている」という紛れもない証拠であり、完全に学生の「自由」でいいというわけではない証拠である。この結果全国何千とある高校野球部が「ウチはどうしようか?」という難しい課題に取り組まなければならなくなり、それこそ「野球どころではない」という結果になるような気がする。

個人的には丸刈りルール賛成である。

1) 何かに真剣に打ち込む時VANITY(色気)は邪魔になる。。。ことが多い。自らの体験で自信を持って言えるが、高校生など異性を気にして勉強だろうが、部活だろうが身が入らないのが普通だと思う。少なくとも異性の事を考えて悶々と過ごす時間がある事は否定できない。髪型はVANITYの象徴である。丸刈りにするということは、ある意味何かに打ち込む覚悟の象徴であると思う。髪型ごときで僕の野球への情熱は薄れない。。。という人もいるかと思うが、それは相当克己心が強い人で、気が散ってしまう何十人という部員を束ねる場合、多少強制的に強いる必要はわかる。
2) 日本人は総じてマゾ的な国民で、「ルールに縛られたり」「逆境に追い込まれて」力を発揮する国民に思える。完全自由に野放しにしたり、有り余るリソースを与えて、そこからとんでもないイノベーションを起こすとか爆発的な結果を残すようなスタイルは申し訳ないが向いていない。多分今後のヘアースタイルの変遷も、じゃードレッドはいいのか、ポニーテールはどうだ?などの議論の末、「無難な」スタイルに落ち着くのであろう。「さわやかな」「若々しい」スタイルが確立され、それが暗黙のルールになっていくと思う。そして「組織的安定」に向かっていくのである。それで大部分の人はホッとして「自由に改善されたルール」に従うのである。なら丸刈りルールに従っても一緒なのではと思う。
3) 学校はある意味社会人になる為の予行演習をする場所である。社会には理不尽なルールやしきたりが山ほどあり、それに屈したり、戦ったりしながら人生を送るのである。完全に「自由」な世界など存在しない。そんな中、校則や部活のルールの様なある意味人生を左右しないようなレベルでの拘束に対して、自分がどう立ち向かうかを考えるのは人生の予行演習である。それを「生徒の自主性に任せて」みたいな無責任な事を言っている教育者は、職責放棄とも思える。縛られた環境で、いかに工夫して自分の欲求を満たすかが青春の醍醐味であり、「やりたい放題できる」のが楽しいのではない気がする。
4) 多分坊主は合理的である。自分も中近東や東南アジアで生活していた時は丸刈りにしていたが、石鹸一つで用が足りるし、汗の始末も楽だし。
5) ヘアースタイルだけを取れば「たいした話ではない」のかもしれないが、社会全体でTPOが崩れていくのはどうなのかと思う。じゃユニフォームはどうなのか?ガムを噛みながらプレーしてもいいのか?とどんどん波及していき、それにいちいちルールを再考するのはナンセンスな気もする。高校野球はそれそのものが伝統や文化である気がする。それには付属的なプロトコールや「お作法」があって、髪型もその一部分なのではと思う。それを「意味がない」と言い飛ばしてしまうのは乱暴だと思う。伝統やしきたりって、無意味で理不尽なルールって結構あって、それも含めて文化な部分があるものである。

自分も押し付けられたルールには相当抵抗してきた方だと思う。今回のヘアースタイルの一件が生徒からの抵抗で撤廃されたルール(場合によってはそもそもそんなルールはなかったという学校もあると思うが)なのか、学校側が自発的に撤廃したのかわからない。でも若くて血気盛んなうちは、親や学校や社会の理不尽に少しづつ対面して、悶々と不満や不安を感じ、それを将来の創造性や自己確立のバネにしていくのではないか?

坊主の修行に行くために剃髪した時に、オヤジに言われたのは「髪の毛なんかいつでも生えてくる。自分の好きな事は、自分で稼げるようになってからやれ。坊主にすることで潰れてしまうような自由や自尊心なら、そんなつまんないものは求めるな」だったと思う。

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