20240114

今日はとんでもなく日本のお菓子が食べたくなって、こっちに来て3か月目、初めて日本のお菓子を買・・おうとした。結局韓国語のハイチュウとか妥協して安いのを集めた。
韓国語ハイチュウ
韓国食材店に置いてあったパチモンHARIBOグミ
本物のHARIBOグミ
中国の干し梅
中国のハーブ仁丹みたいなの
中国の梅タブレットみたいなやつ
合計14$くらい

お菓子を全部開けて片っ端から食べていった。
ハイチュウだけめちゃくちゃ美味しくて泣きそうになった。
HARIBOは、むかーし初めて食べた時、すごく美味しくて、高いけどおいしいグミと思っていた。今はこのケミカルなフレーバーが気持ち悪く感じるようになってた。何気ない事のように思うが色んな選択とか人生の瀬戸際での自分を貫き通さず生きてたら、多分この違いには気づいてないのだ。よくよく考えるとこういう何気ない時に友達と普通に美味い物食べて喜べる感覚が今の自分に備わってることに喜びをかみしめてる。

事あるごとに自己紹介のように書いてしまうけど自分は食に対する最低基準へのこだわりが絶対レベルで存在する。
ハイレベルを求めているのではなくて、せっかくこの世に生まれた命を食らうときにまずく調理することの食事という行為への冒涜みたいなのが許せないのである。
友達曰く「人によって丁寧にしたい所って違うんだろうねー」である。そう。そう言いたい。マイルドな言い方の方が伝わるんかー。不思議。
何かを食べるときに不味いなと思って食べる感覚がものすごく命の尊厳を舐めきっているような気持になる。自分はこれを望んでやっているわけではないのに・・・と。だから料理が上手くなると自己肯定感が上がると思う。
何やねんその理論と思われそうだけど忙しい人間社会の中で本来あって当たり前な感情がないように扱われていることは挙げだしたらきりがないほどの事例が存在すると思う、その中の一つ。
食材をおいしくいただくことで、命を食らうことの罪悪感を少しでもなるべく相殺するようにしていかないと自分は生きられない。
それを止められるなら一緒には居れない。
とかまで言っても人には伝わらんもので
本当に人によって大事なものって違うんだろうなと思うから
一度自分の意見を言ってあしらわれたらそれ以上深く付き合いしない事が大事だなーと思う。

日本のことしか知らないけど、人によって大切なものが違うとか、素晴らしいと思うことが違うとか、欲しいものも、好きなものも、嫌いなものも人によって違う事「十人十色」「千差万別」って言葉をそのままの意味で理解してる人はものすごく少ない。
皆違って当然って思ってたら起こりえない口論ばっかり。
人の概念を変えること以上に、その前提を変えることはもっと容易じゃない気がする。だからその前提がない人とはそもそも話すことがない気がする。

海外に来てる人はせめて持ってると信じたい・・・・・(笑)

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